封じられた部屋
それは城の東棟、最も奥まった廊下の突き当たりにあった。
廊下の空気が変わったのは、渡り廊下を二つ過ぎた辺りからだった。温度が下がり、壁の石が湿気を帯びている。足音が反響する仕方も変わった。それまでの乾いた響きが、ここでは水っぽく、くぐもった音に変わる。人の気配がない場所特有の、重い沈黙が廊下を満たしていた。
リーリエは午後の散歩をしていた。書庫で本を読み、庭の花に水をやり、昼食を済ませた後の、何をするでもない時間。城は広い。まだ歩いたことのない場所がある。リュカとの冒険で見つけた隠し通路の先に、行ったことのない区画があった。
東棟の奥。他の場所に比べて、空気が冷たかった。廊下の壁に灯りが少なく、窓も小さい。使われていない区画だとわかる。埃が積もり、足跡がない。
廊下の突き当たりに、扉があった。
他の扉とは、明らかに違っていた。
重い。一枚板の樫で作られた扉は、城の他のどの扉よりも分厚い。表面に紋様が刻まれていた。古い、非常に古い紋様。リーリエが教会で学んだ封印術の系譜に属するものだが、教会で見たどの紋様よりも精緻だった。
リーリエは扉の前で足を止めた。
封印。
この扉は封じられている。誰かが意図的に、この部屋を閉ざしている。
好奇心——そう呼んでいいのかわからない。しかしリーリエの足は止まり、視線は扉に固定されていた。教会で封印術を学んだ知識が、紋様の意味を読み解こうとしている。
防護の紋。侵入を阻む紋。そして——時間を止める紋。
この部屋の中のものが劣化しないよう、時間の流れそのものを遅くする封印。これほど高度な封印術を施す理由があるとすれば、中に保存すべき何かがあるということだ。
リーリエは手を伸ばした。
指先が扉に触れようとした——
「入るな」
声が背後から飛んできた。鋭く、短く、切り裂くような声。
リーリエの手が止まった。振り返る。
カインが廊下に立っていた。
いつ来たのか。足音は聞こえなかった。気配も感じなかった。それほど素早く——あるいは、それほど必死に駆けつけたということだ。
カインの表情を、リーリエは見た。
怒り——ではなかった。
恐怖。
深紅の瞳が見開かれ、顔色が僅かに白い。唇が薄く開き、息が速い。あのカインが——数百年を生き、魔王と呼ばれ、戦場で軍勢を退ける力を持つ人間が——恐れている。
「何が入っているのですか」
リーリエは静かに聞いた。
「お前が知る必要はない」
「封印の紋様から推測すると、時間保存の術式が施されています。劣化を防ぐ目的の。中に何か大切なものが保管されていますね」
カインの目が揺れた。リーリエの知識に驚いたのか、核心に触れられたことへの動揺か。
「近づくな」
「答えていただけませんか」
「答えない。ここには来るな」
カインの声は——震えてはいなかった。しかし硬かった。感情を押し殺すために、言葉を削ぎ落としている。余計なことを言えば、何かが溢れてしまう——そういう硬さ。
「……随分と、怖い顔をしていますね」
リーリエの言葉に、カインが一瞬、我に返った。
自分の表情に気づいたのだろう。深く息を吸い、瞳の揺れを収める。しかし完全には隠しきれない。額にうっすらと汗が浮かんでいた。
「怖いのは——」
カインが口を開きかけて、閉じた。
「あの廊下には近づくな。頼む」
「頼む」と言った。命令ではなく、頼みごと。カインがリーリエに何かを「頼む」のは、初めてだった。
リーリエは扉を振り返った。重い扉。古い封印。その奥に眠るもの。
カインがこれほど恐れるもの。
興味がないと言えば嘘になる。封印の精緻さから、中にあるものの重要性はわかる。カインの反応から、それが彼の過去と深く結びついていることも。
けれど——
「わかりました」
リーリエは頷いた。
「近づきません」
カインの肩から、僅かに力が抜けた。
二人は並んで東棟の廊下を戻った。歩きながら、リーリエはカインの横顔を見た。深紅の瞳は前を向いている。表情は元に戻りつつあるが、顎の線が硬い。まだ完全には落ち着いていない。
この人にも、恐ろしいものがあるのだ。
魔王と呼ばれ、誰よりも強い力を持ち、何百年も生きてきた人。そんな人にも、触れたくない場所がある。開けたくない扉がある。
それは——人間だということだ。
リーリエは魔王を「魔王」として見ていた。人間の敵、超常の存在、理解の外にいる者。しかし今、恐怖に顔色を変えたカインの姿は——ただの人間だった。何かを恐れ、何かを隠し、何かを守ろうとしている、ただの人。
「カインさま」
「何だ」
「あなたにも、恐ろしいものがあるのですね」
カインが足を止めた。リーリエも立ち止まり、カインを見上げた。
「当たり前だ」
「知りませんでした。魔王は何も恐れないのだと思っていました」
「魔王は万能じゃない」
「そうみたいですね」
カインが何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わなかった。代わりに歩き出す。リーリエもその後に続いた。
廊下を抜け、居住区に戻る。窓から差し込む午後の光が、さっきまでの薄暗い東棟とは全く違う。暖かい。
「茶を淹れてやる」
カインが言った。唐突に。
「頼んでいません」
「頼まれなくても淹れる」
いつもの会話。いつもの不器用さ。けれど声の硬さが、少しだけ残っていた。
厨房で茶を受け取りながら、リーリエはあの扉のことを考えていた。
封じられた部屋。古い封印。時間保存の術式。カインの恐怖。
中に何があるのか。カインの長い長い過去の、どの部分に繋がるものなのか。
聞かない。約束した。近づかない。
けれど——忘れることは、できなかった。
カインの恐怖に歪んだ顔。あの顔を、リーリエは記憶に留めた。
魔王にも恐ろしいものがある。
それを知ったことが——なぜか、少しだけ安心した。完全無欠の存在より、何かを恐れる人間のほうが——信じられる気がした。
茶を飲みながら、リーリエは窓の外を見た。花茶の温もりが指先から伝わり、いつもなら心地よいその温度が、今日は少しだけ違って感じられた。
あの扉の向こうに、何が眠っているのだろう。カインの長い過去の、どの断片が封じられているのだろう。
知りたいと思った。約束を破るつもりはない。けれど知りたいという気持ちだけは——止められなかった。




