夜のお茶会
眠れない夜は、教会にいた頃から続いている。
天井の梁が暗闇の中にぼんやりと浮かんでいる。月の光が窓の柵越しに差し込み、床に格子模様の影を落としている。身体の灼熱はいつもより鋭く、骨の奥が脈打つように痛んだ。寝返りを打つたびに、シーツが肌に擦れる音がやけに大きく聞こえる。
理由は単純だ。夜は痛みが増す。昼間は活動で気が紛れるが、暗闇の中で横になると、身体中を灼く鈍痛だけが意識を占める。結界が命を吸い上げる速度は一定だが、感じ方は夜のほうが鋭い。
ただ——最近は少し、違う。
痛みは変わらない。けれど夜の過ごし方が変わった。本を読み、花の世話をし、リュカに冒険に連れ出され、カインに茶を淹れてもらう。そういう一日を過ごした後の夜は、痛みの質が少しだけ違う。
何が違うのかは、わからない。
リーリエはベッドを出た。
夜着のまま廊下に出る。月明かりが窓から差し込み、石の廊下を白く照らしている。足音を殺して歩く。厨房に行けば水が飲める。あるいは——
厨房の灯りが点いていた。
扉の隙間から、橙色の光が漏れている。誰かがいる。この時間に。
リーリエは扉を開けた。
カインが椅子に座っていた。
テーブルの上にカップが一つ。湯気が立っている。カインは片手でカップを包み、もう片方の手で額を押さえていた。疲れた姿だった。普段の威圧感がなく、ただの——眠れない夜を過ごしている一人の人間に見えた。
「……魔王も眠れないのですか」
カインが顔を上げた。リーリエを見て、一瞬だけ目を見開き、すぐに元の無表情に戻った。
「ああ。昔からだ」
「昔から、というのは」
「……長い話だ」
カインは茶を一口飲んだ。リーリエは厨房に入り、カインの向かいの椅子に座った。
許可は求めなかった。座りたいから座った——というほどの積極性はない。ただ、立ったまま会話するのは据わりが悪かったから。それだけのことだ。
カインが立ち上がり、棚からもう一つカップを出した。棚の蝶番が小さく軋み、陶器が触れ合う澄んだ音がした。湯を沸かし、茶葉を入れ、丁寧に淹れる。茶葉が湯に触れた瞬間、甘い蒸気が厨房の冷えた空気を押しのけるように立ち上った。手慣れた動作だった。魔王が茶を淹れる姿は、初めて見たときは違和感があったが、今はもう見慣れてしまった。
「ほら」
カップがリーリエの前に置かれた。花茶。いつもの甘い香り。
「……ありがとうございます」
口をつける。温かい。胃の中にゆっくりと熱が広がる。
花の香りが口の中に広がり、舌の上で甘さが転がった。身体の芯にまで届くような温かさだ。教会の食事にはこういう温度がなかった。すべてが冷めていて、味気なかった。
「痛むのか」
カインが聞いた。
「いつも通りです」
「いつも通り痛むのか」
「はい」
カインが黙った。「いつも通り痛む」という言葉の重さを、噛みしめているような沈黙だった。
二人でテーブルに向かい合い、茶を飲んだ。花茶の甘い香りが厨房の冷えた空気の中に浮かんでいる。陶器の縁に唇をつけるたび、蒸気が鼻先を温めた。
会話は少なかった。カインは時折カップを口に運び、リーリエも同じようにカップを傾ける。窓の外は暗く、月が高い位置にある。虫の声が遠くから聞こえた。蝋燭の炎がテーブルの上で揺れ、二人の影が壁に伸びている。カインの大きな影と、リーリエの小さな影。並んではいないが、同じ灯りに照らされている。
茶のカップを包む手が温かい。陶器越しの熱が、指先から掌へ、掌から腕へと伝わっていく。
教会にいた頃は、眠れない夜は苦痛の延長だった。暗い部屋で、一人で、痛みに耐えながら朝を待つ。それだけの時間。
今は——カインが向かいに座っている。
不思議な感覚だった。別に話しているわけではない。慰めてもらっているわけでもない。ただ同じテーブルで、同じ時間を過ごしているだけ。
けれど「一人」と「二人」は違う。暗闘の中の一人の夜と、灯りの中の二人の夜は違う。
「あなたは——なぜ眠れないのですか」
聞いてから、しまったと思った。踏み込みすぎた。カインの不眠の理由は「長い話」であり、聞かないほうがいいと判断していたはずなのに。
カインは茶碗を見つめた。
「……夢を見る」
「夢」
「昔の夢だ。目が覚めると眠りたくなくなる」
それ以上は語らなかった。リーリエも聞かなかった。
互いの不眠の理由は——触れずに置いておく。痛みの理由も、夢の内容も。今はただ、眠れない夜を共有するだけ。蝋燭の灯りが二つのカップの縁に小さな光を乗せ、花茶の水面が橙色に揺れていた。
蝋燭の炎が揺れ、二人の影が壁の上で微かに動いた。厨房の窓から見える空は、まだ暗い。夜明けは遠い。けれどこの夜は、教会の地下で過ごしたどの夜よりも——短く感じられた。
それで十分だと——リーリエは思った。十分、とはどういう意味だろう。何と比較して十分なのか。以前の夜と比較して。教会の地下の、一人きりの夜と比較して。
茶が半分ほどになった頃、リーリエの瞼が少し重くなった。
「……少し、眠くなりました」
「なら部屋に戻れ」
「ええ」
リーリエは椅子から立ち上がった。カップをテーブルに置き、厨房の出口に向かう。
扉の前で、足が止まった。
「……ありがとうございます。お茶」
振り返らずに言った。振り返ったら、何か余計なことを言ってしまいそうだった。何を言いそうなのかは自分でもわからない。ただ——振り返ってはいけないと、直感が告げていた。
背後で、カインの気配が揺れた。
「……ああ」
短い返事。リーリエは廊下に出て、部屋に向かった。
廊下の窓から月明かりが差し込み、石の床に白い帯を描いている。裸足の足裏に石の冷たさが沁みた。歩きながら、自分の言葉を反芻した。「ありがとうございます」。お茶に対して。あるいは——この時間に対して。どちらに対しての感謝なのか、自分でもわからない。
わからないことが、最近増えた。
部屋に戻り、ベッドに入った。痛みはまだある。けれど花茶の温かさが胃の底に残っていて、少しだけ痛みが遠い。
厨房にはまだ灯りが点いているだろうか。カインはまだそこにいるだろうか。
考えながら——眠りに落ちた。
今夜は、いつもより少しだけ早く眠れた気がした。




