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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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大司教の反撃

 大司教グレゴリウスの声明は——完璧だった。


 完璧、という言葉が適切だった。美しくもなく醜くもなく、感情的でも無感覚でもなく——ただ、隙がなかった。城壁のように。あるいは数式のように。一つの前提から結論まで、論理の鎖が途切れることなく繋がっている。


 良心派のネットワークを通じて、その全文が隠れ家に届いた。リーリエは声に出して読んだ。一字一句を、噛み締めるように。


「——信徒の皆様。聖女の口を借りた魔王の虚言に惑わされぬよう、冷静な判断を求めます」


 出だしからして——巧みだった。「聖女の口を借りた」という表現。リーリエ自身を否定するのではなく、「魔王に操られた被害者」として描く。民衆の聖女への敬愛を損なわずに、メッセージだけを無効化する手法。巧緻《こうち》というほかない。


「仮に、聖女制度が犠牲の上に成り立っているとしましょう。それが事実だとしても——問うべきは、その犠牲の意味です」


 リーリエの手が止まった。「仮に」。この一語が恐ろしい。事実かどうかを争わない。事実だと仮定した上で——それでも自分の論理が正しいと主張する。防御と攻撃を同時に行う話法。


「一人の犠牲で、万人が救われる。結界が維持され、災厄から世界が守られる。これは残酷でしょうか。そうかもしれません。しかし——代替案はあるのでしょうか」


 大司教の論理が、紙面から迫ってきた。冷たい。けれど——隙がない。


「彼らが唱える『第三の道』は不確実な賭けです。万人の祈りで結界を維持する——聞こえは美しい。しかし失敗すれば、結界は崩壊し、世界は滅びます。一人の確実な犠牲と、世界の不確実な滅亡。あなたはどちらを選びますか」


 リーリエは声明を卓に置いた。


 手が——震えていた。怒りではない。恐怖でもない。この論理の——圧倒的な説得力に、打たれたのだ。大司教は嘘をついていない。歪めてもいない。事実を並べて、論理で組み上げている。その論理は——確かに、正しく聞こえる。


「……彼の言うことは、正しく聞こえる」


 リーリエは呟いた。認めたくなかったが——認めるしかなかった。


 カインが声明を手に取り、読んだ。深紅の瞳が紙面を走り、眉間に皺が寄った。読み終える前に——拳が震えていた。


「ふざけるな。一人の命を踏み台にしていい理屈があるか」


「でも——それだけでは人は動かないわ」


 リーリエの声は冷静だった。感情を押し殺しているのではない。分析しているのだ。大司教の論理の構造を——解剖するように。


「カイン。あなたの怒りは正しい。でも、怒りだけでは——大司教の論理に勝てない」


 カインが振り向いた。深紅の瞳に怒りの炎が燃えている。


「理屈じゃない。一人の命を——」


「それは《《感情論》》として退けられるわ」


 リーリエの指摘は鋭かった。カインの言葉が——止まった。唇を噛み締めた。


「大司教の強さは、感情を排除した論理にある。『一人の犠牲で確実に万人が救われる』——これは数字の問題として提示されている。数字に感情で反論しても、人は動かない。むしろ——感情的な反論は、大司教の冷静さをより際立たせてしまう」


 リーリエは立ち上がった。部屋を歩いた。考えながら歩く癖がある。


「理屈では負けている。大司教の論理は——一理ある。一人の犠牲で世界が救われるなら、それは合理的に見える。多くの人が——そう思うでしょう。不確実な賭けより確実な方を選ぶ。それは人間の本能だわ」


「だったらどうする」


「心で勝つしかない」


 リーリエは足を止めた。カインを見た。薄い青紫の瞳が——鋭かった。


「論理で勝てないなら——心に訴える。一人の犠牲が『数字』ではなく『人間の命』だと、感じてもらうしかない。大司教は聖女の命を数字に還元した。私は——それを、人に戻す」


 カインは黙った。リーリエの瞳を見つめた。もう虚ろさはない。代わりに、鋭い知性と、静かな決意があった。崖の上で「疲れた」と呟いていた少女は——いない。


「……お前は、変わったな」


「変わったんじゃないわ。目が覚めただけ」


 カインが——鼻を鳴らした。口元が僅かに緩んだ。


「で、具体的にはどうする」


「考えるわ。今はまだ——答えが見えない。でも、見つける」


 カインが卓の上に茶を置いた。いつ淹れたのか。湯気が立っている。薬草茶。また少し苦い。


「考えすぎると体に毒だ」


「あなたは考えなさすぎよ」


「お前の分まで考えてもらってるからな」


 リーリエが——少しだけ笑った。重い話の中で——この軽口が、息継ぎになる。


 大司教の論理は手強い。功利主義の刃は鋭い。一人の犠牲で万人が救われる——その数字の冷たさに、どうやって温度を取り戻すか。


 答えは——まだ見えない。けれど必ず見つける。


 リーリエの戦いは——言葉の戦いだ。剣ではなく、魔法でもなく、言葉で。人の心に届く言葉を見つけ、大司教の冷たい論理に温度を取り戻す。


 それは——カインにはできない戦い。レオンハルトにも、リュカにもできない。リーリエだけの戦場だ。


 薬草茶を一口飲んだ。苦かった。けれど温かかった。カインの淹れた茶は、いつも少し苦い。そしていつも——温かい。


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