真実の声
朝が来た。
眠れなかった。正確には——深夜の三時頃から目が冴えて、天井の木目を数えていた。数え終わる前にカインが様子を見に来て、「寝ろ」と言われたが眠れなくて、結局二人で薬草茶を飲んだ。カインの淹れる茶は相変わらず少し濃かった。
朝の光が東の窓から差し込み、リーリエの銀灰色の髪を照らした。深呼吸をした。冷たい朝の空気が肺を満たし、眠気を洗い流してくれた。
リーリエは隠れ家の中央の部屋に立っていた。卓の上に、良心派が用意した魔法の通信回路——伝声の術式が刻まれた水晶盤が置かれている。拳ほどの大きさの透明な結晶。古代の術式が内部に刻まれ、微かに脈動している。この水晶盤に声を吹き込めば、各地の修道院に設置された受信盤に音が届く。そこから、良心派が民衆に伝える。
リーリエの声を。世界に。
「準備はいいか」
カインが傍に立っていた。深紅の瞳が——静かに、リーリエを見ていた。心配の色。けれどそれを押し殺して、信頼の色を前に出している。この男は——リーリエの前で心配を見せることを、自分に禁じているかのようだ。
リュカが扉の傍に立っている。従者たちが廊下に並んでいる。全員が——息を止めていた。部屋の空気が張り詰めている。
リーリエは深呼吸した。一回。二回。三回目で——心が定まった。
胸の左側——聖女の紋章が、微かに熱を持っていた。結界の燃料として命を削り続ける紋章。この紋章がある限り、リーリエの命は消費され続ける。常に全身を灼かれるような鈍痛が走り、時折息ができなくなるほどの激痛が襲う。この苦痛を——世界は知らない。知ろうとしなかった。
今日、知らせる。
リーリエは水晶盤に手を置いた。冷たい表面が指先に触れた。術式が起動し、水晶が淡い光を帯びた。光が脈動し、やがて安定する。接続完了。各地の受信盤に——繋がった。
口を開いた。
「——聞いてください」
声が——震えなかった。
「私はリーリエ。あなたたちが聖女と呼ぶ者です」
各地の修道院で、受信盤が光った。良心派の聖職者が広場へ走った。酒場へ走った。市場へ走った。リーリエの声を——一字一句、読み上げるために。十二都市と二十三の分院。同時に。草の根のネットワークが——動き出した。
「あなたたちの平和は——一人の少女の命の上に成り立っています」
リーリエの声は澄んでいた。怒りではなく。嘆きでもなく。ただ——事実を述べる声。昨夜テラスで練った言葉を、一つ一つ、丁寧に。
「歴代の聖女たちは、世界を守るために命を捧げたのではありません」
一拍の間。この間が——大切だった。聞く者に、考える隙を与える間。
「捧げさせられたのです」
水晶盤が微かに震えた。リーリエの声に込められた力が、術式を通じて世界に広がっていく。波紋のように。風のように。止められない速さで。
「聖女制度は——人柱です。一人の少女の命を燃料に、結界を維持する仕組み。それを教会は五百年、隠し続けてきました」
言葉を選んでいた。告発にならないように。けれど真実が薄まらないように。その狭い稜線を——慎重に歩いている。
「私は今、命を削られています。毎日。毎時間。全身を灼かれるような痛みの中で——結界を支えています。私の前にも、何人もの聖女がそうしてきました。そして——死にました。十代で。二十歳にもならないうちに」
リーリエの声は揺るがなかった。自分の痛みを語るとき——もう、泣かない。泣く段階は過ぎた。泣いて同情を得たいのではない。知ってほしいだけだ。
「私はこの真実を——あなたたちに知ってほしい。知った上で、考えてほしい。この仕組みが——本当に、正しいのかどうか」
水晶盤の光が収束した。術式が沈静化し、水晶が透明に戻った。伝達は完了した。
リーリエの声は——世界に放たれた。
静寂が落ちた。
隠れ家の中で、誰も動かなかった。リュカが息を呑んでいた。従者たちが目を伏せていた。カインが——動かなかった。深紅の瞳がリーリエを見つめていた。
リーリエは水晶盤から手を離した。
膝が——震えた。
全身の力が抜けた。緊張が解けたのだ。声を出している間は気が張っていた。けれど終わった瞬間——糸が切れたように。椅子を探したが、近くになかった。そのまま——崩れかけた。
カインの腕が——支えた。
当たり前のように。呼吸するように自然に。リーリエの身体を受け止め、支え、立たせた。腕の力は強かったが、触れ方は優しかった。
「……言えた」
リーリエの声が、掠れた。
「ああ」
カインの声は低かった。静かだった。
「よくやった」
その三文字が——リーリエの全身に染みた。取り返しのつかないことをした。世界に向けて、教会の闇を暴いた。もう戻れない。教会は必ず反撃する。民衆がどう反応するかも分からない。
けれど——正しいと信じている。
リュカが気を利かせて従者たちを廊下に追い出していた。扉が静かに閉じた。
カインの腕の中で、リーリエは目を閉じた。もたれかかった。素直に。抵抗なく。
「大勢の前でそんなこと……」
「誰も見てない」
「……そうね」
真実は放たれた。取り消せない言葉が、世界に広がっていく。教会が五百年守ってきた秘密の壁に、最初のひびが入った。
リーリエはカインの腕の中で、静かに呼吸を整えた。心臓がまだ速く打っている。全身の血が沸いているようだった。恐怖と達成感と不安が入り混じった、名前のない感情。
世界は——どう応えるのか。




