嵐の前
嵐の前の夜は——静かだった。
空気が澄んでいた。秋が深まり、夜の温度が一段下がっている。吐く息が白く曇る。けれど隠れ家の中は温かかった。暖炉の火と、人の気配と、何よりも——共にいることの安心感が、壁の中を温めていた。
隠れ家の厨房から、いい匂いがした。肉と香草を煮込む匂い。パンを焼く匂い。リュカが腕を振るっている。従者たちが——魔王城から合流してきた数人が——張り切って食材を並べていた。
「明日のために力をつけないと!」
リュカが鍋を振り回しながら言った。尖った耳がピンと立っている。嬉しいのだ。料理をしているときのリュカは、いつもこうだ。目が輝き、手が踊り、口が止まらなくなる。
「お嬢、好きなもんリクエストしてくださいよ。何でも作りますよ」
「何でも?」
「何でも。旦那様の分は——まあ、余ったらで」
「おい」
カインの低い声に、厨房が笑いに包まれた。従者の一人が「主様、大丈夫です、ちゃんと作りますから」と取り繕い、リュカが「余ったらって言ったんですよ、余ったら」と言い訳している。
食卓を囲んだ。リーリエとカイン、リュカと従者たち。大きな卓ではない。隠れ家のささやかな食堂に、肩を寄せ合って座る。リュカの作った煮込み料理は温かく、パンは焼きたてだった。香草の香りが部屋に満ちていた。
笑い声があった。軽口があった。リュカがカインをからかい、カインが無愛想に返し、従者たちが笑い、リーリエが小さく微笑む——いつもの光景。魔王城での日常の、延長線上にある光景。天井が低くても、壁が古くても——人が揃えば、そこが居場所になる。
けれど、全員が知っている。
明日——世界が変わる。
この食卓が、このまま続くかどうかも、わからない。真実を公開すれば、大司教は必ず反撃する。教会の軍が動くかもしれない。この隠れ家が見つかるかもしれない。
だから誰も、食事を急がなかった。一口一口を味わい、会話を楽しみ、温もりを——貯め込むように。明日以降のために。
食後、リーリエはテラスに出た。
夜空は澄んでいた。星が——多かった。こんなに星が見えるのは、辺境にいるからだ。教会にいた頃は祭壇の天井しか見えなかった。白い石の天井に描かれた聖画を見上げて、あれが空のすべてだと思っていた。魔王城にいた頃は城壁の向こうの空だった。
今は——遮るものがない。
「明日、世界が変わる」
リーリエは呟いた。声が、夜の空気に溶けた。白い息が立った。冷えてきている。
「いい方にか、悪い方にか——わからないけれど」
背後に気配があった。カインが出てきた。テラスの手すりに並んで立つ。二人の間に——言葉はなかった。しばらく。星を見上げて、夜風に吹かれて、ただ並んでいた。
「どっちに転んでも」
カインが言った。
「俺はお前の隣にいる」
低い声だった。素っ気ない声だった。けれどその声に——嘘はなかった。この男が嘘をつくのは「心配してない」と言うときだけだ。本当のことを言うとき——声が低くなる。静かになる。まるで大切なものをそっと差し出すように。
リーリエは夜空を見上げたまま、小さく息を吐いた。
「怖い、って言ってもいい?」
声が——小さかった。自分でも驚くほど。大勢の前で真実を語る覚悟はある。歴代聖女の代弁者として立つ決意もある。けれど——怖い。怖くないわけがない。
カインが隣で動いた気配。振り向いた——のではなく、少しだけ身体をリーリエの方に向けた。
「当たり前だ。怖くない方がおかしい」
「……そう」
「世界を敵に回すかもしれない。全部が無駄になるかもしれない。教会が軍を送ってくるかもしれない。それが怖くない人間はいない。怖いから——準備した。怖いから——仲間を集めた。怖くなかったら、こんなに用意周到にはやらない」
リーリエは——少しだけ、目を見開いた。
怖いことは、弱いことではない。怖いからこそ、ここまで来た。恐怖は——行動の燃料になる。
「……ありがとう」
リーリエの声が、少し強くなった。
「怖いけど——やるわ」
「知ってる」
夜風が吹いた。冷たかった。リーリエの髪が揺れ、肩が僅かに震えた。両腕で自分の身体を抱くようにした。
カインの腕が——動いた。
リーリエの肩を引き寄せた。不器用に。力加減が分からないように。少し強すぎた。けれど——温かかった。カインの外套の下は、思った以上に温かかった。鉄と古い書物の匂い。この男の匂い。
リーリエは驚いた。身体が強張った。一拍。二拍。心臓が早く打った。
「……今日は」
リーリエの声が、かすれた。
「許してあげる」
身体の力を抜いて——カインの腕の中に、身を預けた。
「今日だけか」
「明日は明日、考えるわ」
カインが——微かに笑った。声ではなく、息で。リーリエの頭の上で、温かい息が揺れた。
星が瞬いていた。明日、世界に真実を告げる。聖女制度の闇を。歴代聖女たちの声を。
けれど今夜だけは——この温もりの中にいたかった。
もう少しだけ。
カインの腕の中で、リーリエの紋章が微かに脈打っていた。弱く、不安定に。けれど今夜は——痛くなかった。カインの温もりが、紋章の冷たさを中和しているかのように。
星が一つ流れた。リーリエだけが見た。願い事は——言わなかった。言わなくても、隣にいる人に伝わっていると思ったから。




