代弁者の決意
歴代聖女たちの声が——聞こえる。
リーリエは隠れ家の自室で、膝の上に古い記録を広げていた。カインが数百年かけて集めた資料の中に、歴代聖女たちの手記の断片がある。教会が隠蔽した記録の残骸。焼かれ、破られ、それでも消えきらなかった言葉たち。羊皮紙は黄ばみ、端は焦げ、インクは褪せている。けれど文字は——まだ生きていた。
——生きたかった。
三代目聖女の手記。十四歳で覚醒し、十七歳で炉に命を注いで果てた少女。筆跡は幼く、震えていた。文字の間隔が不揃いで、ところどころインクが滲んでいる。泣きながら書いたのだと——リーリエにはわかった。
——友達が欲しかった。歳をとりたかった。おばあちゃんになって、孫の頭を撫でたかった。
七代目聖女の遺書。教会の祭壇の裏に隠されていたものを、カインが百年以上前に見つけ出した。壁の隙間に押し込まれた、小さな紙片。百年以上経っても——紙は残っていた。声を残す場所が、そこしかなかったのだ。
——なぜ私が。なぜ。なぜ。神様、なぜ。
十二代目聖女の祈りの言葉。これは祈りだった。神に——誰でもいい、誰かに——訴えかける声。同じ「なぜ」が、七回繰り返されていた。七回目の文字は判読できないほど乱れている。けれど答えは——返らなかった。五百年経った今も。
リーリエは頁を繰る手を止めた。指先が震えている。
この人たちは——私と同じだった。苦痛の中で、死を望んだ。あるいは死すら望めないほど疲弊して、ただ消えていった。そして世界は彼女たちの犠牲を「崇高な使命」と呼び、感謝の祈りを捧げ、次の聖女を炉に送った。
何百年も。何百年も。何代も、何代も。
「この人たちの声を」
リーリエは呟いた。薄い青紫の瞳が、記録の文字を見つめている。もう虚ろではない。痛みがあった。怒りがあった。そして——使命感があった。自分の痛みではない。この人たちの痛みを——世界に届けたい。
「世界に、届ける」
扉が開いた。カインが入ってきた。リーリエの表情を見て、一瞬立ち止まった。深紅の瞳が——記録の山を、そしてリーリエの涙の跡を見た。
「……読んでいたのか」
「ええ。何度目か、わからないけれど」
リーリエは記録を閉じた。丁寧に。この記録には——命が詰まっている。手荒に扱えない。
「決めたわ。私が語る。歴代聖女たちの《《代弁者》》として」
カインの表情が——引き締まった。深紅の瞳が揺れた。口元が僅かに動いた。何かを言いかけて——飲み込んだ。そして、別の言葉を選んだ。
「一人で背負うな」
その声には——五百年分の重さがあった。初代聖女エルシェを救えなかった男の声だ。一人で背負わせた後悔が、あの日からずっと、この男の中にある。エルシェは一人で炉に向かった。一人で決めて、一人で歩いて、一人で死んだ。カインは——それを止められなかった。
リーリエは首を横に振った。穏やかに。けれどはっきりと。
「背負うんじゃない」
一拍。
「伝えるの」
カインが息を呑んだ。
「背負うのは——自分の中に閉じ込めること。伝えるのは——外に出すこと。私はこの人たちの想いを、自分の中に抱え込むんじゃない。世界に渡すの。届けるべき場所に、届けるだけ」
リーリエの声は静かだった。けれど揺るぎがなかった。かつて崖の上に立っていた少女の声ではない。あの日の「疲れた」と呟く声でもない。
——伝えるの。
その言葉を聞いたカインの表情が、僅かに緩んだ。安堵ではない。敬意だ。目の前にいるのが——もう守るべき聖女ではなく、共に戦う人間であることへの、静かな敬意。
「……わかった」
カインは壁に背を預けた。腕を組んだ。
「で、何を語る」
「嘘のない言葉で。ただ、真実を」
リーリエはテラスに出た。夜風が髪を揺らした。星が見えた。空は広い。何も遮るものがない。明日、この空の下にいるすべての人に——声を届ける。
椅子を引き、言葉を練り始めた。何を語るべきか。どう語れば、人の心に届くのか。
「聖女制度は嘘です」——それでは告発だ。壁を作る。人は告発されると、反射的に耳を塞ぐ。
「お願いです、助けてください」——それでは懇願だ。同情は得られても、変革は起きない。人は同情しながらも、自分の日常を変えようとはしない。
ではどう伝えるか。
リーリエは歴代聖女たちの言葉を思い出した。あの震える筆跡。幼い文字。滲んだインク。
——生きたかった。
それだけでいい。飾らなくていい。修辞も論理もいらない。真実は——それだけで十分に重い。
夜が更けた。リーリエはテラスの椅子に座り、言葉を書いては消し、書いては消した。風が冷たくなってきた。けれど部屋に戻る気にはならなかった。頭の中で——歴代聖女たちの声が渦巻いている。
足音がした。重い足音。けれど気配を消す癖はない——今は。
カインが——毛布と、温かい飲み物を持って現れた。湯気が立つ杯を差し出す。何も言わずに。
「まだやるのか」
「もう少しだけ」
「……言うと思った」
カインは何も言わずにリーリエの隣の椅子に座った。毛布をリーリエの肩にかけた。乱暴な手つき。しわくちゃに畳まれた毛布。けれど——温かかった。
リーリエは杯を受け取った。薬草茶の香りがした。カインが淹れたのか。あまり上手ではない。少し苦い。薬草の配合が間違っている気がする。けれど——温かかった。
「ありがとう」
「早く寝ろ」
「もう少し」
「……」
カインは何も言わなかった。ただ隣に座って、星を見上げていた。五百年前の空と、今の空は——同じだろうか。この男はどれだけの夜を、一人で過ごしたのだろう。
リーリエは視線を草稿に戻した。
言葉は——もうすぐ、纏まる。歴代聖女たちの声を、自分の声に乗せて。世界に。




