密使
密使を送る——その決断をしたのは、夜明け前だった。
隠れ家の窓から差し込む薄明かりの中で、リーリエは小さな書状を折り畳んだ。羊皮紙ではなく、ありふれた木綿の布に書いた。万が一途中で奪われても、ただの洗濯物に見えるように。カインの提案だった。こういう知恵を数百年の経験は持っている。
「準備はできたか」
背後から声がかかった。振り返らなくても、わかる。重い足音なのに気配を消す癖がある——カインだ。黒い外套を纏い、窓枠に背を預けている。深紅の瞳が薄闇の中でも鮮明に光っていた。
「ええ。あとは託すだけ」
リーリエは布を丁寧に畳み直した。そこには聖騎士団長レオンハルト・クレーフェに宛てた言葉が記されている。聖女制度の真実を世界に公開する。その日が近い。あなたの力を借りたい——と。
文面を考えるのに一晩かかった。短すぎれば伝わらない。長すぎれば途中で奪われた際の被害が大きい。最終的に三行に収めた。三行で——世界を変える計画を、伝えなければならなかった。
密使に選ばれたのは、リュカだった。
「いやぁ、俺でいいんですかね。こう見えて目立つんですよ、俺」
リュカが袖をまくりながら言った。栗色の髪をいつもより低く結び、尖った耳を帽子で隠している。商人風の外套を羽織り、腰には短剣を一本だけ。軽口を叩いているが、琥珀色の瞳には真剣な光が宿っていた。この男は——ふざけた顔をしているときほど、本気だ。
「あなたが一番足が速いでしょう。それに——聖騎士団長に見つかっても、顔を知っている」
「お嬢に言われちゃあ、断れませんね」
リュカは布を受け取り、懐に入れた。カインが窓枠から背を離し、一歩前に出た。
「道中の安全は俺が確保する。街道の要所に結界を張っておいた。感知されたら即座に退け。無理はするな」
「旦那様が心配してくれるなんて、俺ぁ感激で——」
「黙って行け」
リュカが肩を竦めて笑い、窓から身を翻した。半霊族の身体能力は人間の比ではない。音もなく、影のように消えた。夜明けの薄明かりに溶けるように——いなくなった。
残されたのは静寂だった。
リーリエは窓辺に立ち、リュカが消えた方角を見つめた。心臓が早く打っている。密使を送っただけだ。まだ何も始まっていない。けれど——歯車が動き始めた。もう止められない。
肩が強張っていた。自分でも気づかないうちに、両手を握り締めていた。指先が白くなるほど。爪が掌に食い込んでいた。
不意に、背中に手が触れた。
カインが——リーリエの肩を、軽く叩いた。ぽん、と。乱暴でもなく、優しすぎもしない。ちょうどいい重さの手。剣を振るう手なのに——背中を叩くときだけは、力の加減を知っている。
「うまくいく」
「……根拠は?」
「俺の勘だ」
リーリエは思わず振り返った。深紅の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。何の根拠もない。けれどこの男が「うまくいく」と言うとき——不思議と、嘘には聞こえない。五百年を生きた男の勘は、理屈より信用できるのかもしれない。
「頼りないわね」
「いつも当たる」
「……それも根拠がないわ」
けれど、肩の力が少しだけ抜けた。握り締めていた拳が——ほどけた。
リーリエは窓から目を逸らし、部屋の隅に積まれた書類に目を向けた。聖女制度に関する記録。歴代聖女たちの名前。炉の構造に関するカインの覚書。そして——リーリエ自身が世界に向けて語るべき言葉の草稿。まだ白紙だ。何を語るか、決まっていない。
すべてが、この一手にかかっている。
聖騎士団長レオンハルトは——応えてくれるだろうか。
あの男は教会から離反した。聖女制度の真実を知り、己の正義に従って剣を下ろした。けれどそれから時が経っている。水面下で何をしていたのか、リーリエたちには分からない。孤立しているかもしれない。既に大司教に捕らえられているかもしれない。あの実直な男が策略に長けているとは思えないのだ。
不安が胸を掠めた。
それでも——信じるしかない。
あの琥珀色の目を。嘘がつけない、まっすぐな目を。聖女を守ると誓った、あの目を。
返答が届いたのは、翌日の夕暮れだった。
リュカが戻ってきた。息一つ乱していない。ただ——顔が、笑っていた。いつもの軽薄な笑みではない。心の底から安堵した、本物の笑みだった。
「お嬢、朗報です」
リュカが懐から一枚の布を取り出した。聖騎士団長からの返答。リーリエはそれを受け取り、広げた。
書かれていた言葉は短かった。
——待っていた。
たった四文字。けれどその四文字に、どれほどの重みがあるか。レオンハルトは待っていたのだ。教会から離れ、水面下で、この日を。どれだけの困難があっただろう。どれだけの孤独があっただろう。それでも——待っていた。
リュカが続けた。
「聖騎士団長はね、離反してからずっと各地を回っていたそうですよ。聖女制度の真実を知った聖職者や聖騎士を、一人ずつ集めて。良心派って呼ぶんだそうです、自分たちのことを」
良心派。教会の中にいながら、良心を捨てきれなかった人々。声を上げれば排除される。黙り続ければ魂が腐る。その狭間で——声を潜めて、繋がってきた人々。
「それと——聖騎士団長が、こう言っていました」
リュカは少し間を置いた。軽口を叩かない。この男がまっすぐな顔をするとき、伝える言葉の重さを知っている証拠だった。
「『あの方は、もう守られるだけの人ではない』——と」
リーリエの手が、僅かに震えた。
守られるだけの聖女。教会に閉じ込められ、結界の燃料として消費され、逃げ出した先で魔王に拾われた少女。ずっとそうだった。守られて、生かされて、誰かに運命を決められて。崖の上で「もう疲れた」と呟いた日から——長い時間が経った。
けれど——もう、違う。
「ええ」
リーリエは布を折り畳み、静かに頷いた。薄い青紫の瞳に——光があった。虚ろではない。確かな意志の光。
「もう、誰かに守られるだけじゃない」
窓の外は夕焼けに染まっていた。橙色の光が部屋に差し込み、リーリエの銀灰色の髪を淡く照らした。カインが壁に背を預けて立っている。深紅の瞳がリーリエを見ていた。何も言わない。ただ——見ていた。
密使は成功した。聖騎士団長は待っていた。良心派は組織されていた。
真実を世界に告げる日が——近い。




