↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

275/350

生きたい

 夜が明けようとしていた。


 窓の外の闇が薄まり、森の輪郭が浮かび上がる。鳥はまだ鳴かない。世界が息を潜めているような、静寂の時間。夜と朝の境界。闇と光が溶け合う一瞬。


 カインは椅子に座ったまま、動いていなかった。昨夜の告白の後、二人とも一言も発していない。リーリエは椅子に深く腰掛け、自分の膝を見つめていた。両手が膝の上で組まれ、指が微かに動いている。


 長い沈黙だった。


 カインの「世界がどうなってもいい」という言葉が、まだ部屋の空気に残っている。重く、熱く、行き場のない言葉。カインの五百年分の感情が込められた言葉。その言葉がリーリエの中で、何かを動かし続けている。


 リーリエは——考えていた。


 いや、考えるというよりも、胸の奥で何かが形になるのを、待っていた。思考ではなく、もっと深い場所からの——声。


 昨夜カインが吐露した感情は、リーリエを圧倒した。世界を捨てる。この人は本気だ。リーリエ一人のために、五百年の戦いも、世界の存亡も、すべてを投げ出すと。


 それは——途方もない愛だった。


 けれど、リーリエはそれを受け入れることができなかった。


 なぜか。


 自分でもわからなかった。カインに愛されていることが嬉しくないわけではない。むしろ胸が痛いほどに嬉しい。胸の奥が熱くなって、紋章の鈍痛とは別の痛みが走る。けれど「世界を捨てる」という答えには——何かが、違う。何かが、足りない。


 リーリエは自分の左胸に手を当てた。紋章が微かに脈打っている。二年間、命を吸い続けた鎖。この鎖が——リーリエとこの世界を繋いでいる。


 ——死にたかった。


 かつての自分を思い出す。崖の縁に立ち、風に聖衣を揺らし、目を閉じた。終わらない痛みから解放されたかった。もう燃えたくなかった。もう誰かの燃料でいたくなかった。


 死ぬことが、唯一の救いだった。


 カインに拾われた日。「お前が死ぬと世界が終わる。だから俺の隣にいろ」。あの言葉は束縛だと思った。新しい鎖だと。けれど魔王城で暮らすうちに——鎖は、少しずつ手を繋ぐ温もりに変わった。


「ここにいたい」と思った。

「まだ死ねない」と思った。

「あなたを失いたくない」と思った。


 そして今——


 リーリエの目が、窓の外の空を見上げた。東の空が、ほんの僅かに白んでいる。夜明けの一歩手前。闇と光の境界線。


 今は。


「それは違う」


 声が出た。


 自分の声に、自分で驚いた。静かだったが、確かな声。胸の奥の底から汲み上げたような、一滴の嘘もない声。身体の芯から出た声だった。


 カインが顔を上げた。疲労に覆われた深紅の瞳が、リーリエを見る。


 リーリエはカインを見つめた。深紅の瞳を。疲労と恐怖に覆われた、けれど愛情だけは隠しきれなかった、その瞳を。


「それは違うわ、カイン」


 もう一度、言った。声はまだ震えていない。まだ——大丈夫。言える。言わなければ。


「世界を捨てなくていい。捨てないで」


 カインの眉が動いた。困惑。驚き。そしてかすかな——痛み。


「私は——」


 リーリエの唇が震えた。


 二年間閉じてきた感情の蓋が、今、開こうとしている。凍結していた心が、溶け出そうとしている。崖の上で閉じた蓋。教会で閉じた蓋。痛みに耐えるために、苦しみに負けないために、自分で封をした感情。


 その蓋が——今、外れる。


「私は——生きたい」


 声が、部屋に響いた。


 静かだった。叫びではなかった。けれどその静けさの中に、三百五十話分の——いいや、十七年分の——すべてが込められていた。


「あなたと、この世界で。だから世界を捨てないで」


 言葉が出た瞬間、リーリエの左胸の紋章が光った。


 白銀ではなかった。試行のときに見た、あの淡い金色。温かく、柔らかく、聖女の冷たい光とは異なる色。無数の小さな灯火が集まったような、優しい光。


 紋章が一瞬だけ——しかし確かに——安定した。乱れ続けていた揺らぎが消え、穏やかな光を放つ。痛みが引いた。灼熱が和らいだ。まるで紋章そのものが、リーリエの言葉に応えたように。


 リーリエ自身が、最も驚いていた。


 生きたい。


 その言葉を、自分の口が発した。自分の意志が、選んだ。


 死にたがりだった。終わらない痛みに疲れ果て、崖から身を投げた。カインに拾われて、魔王城で暮らして、少しずつ感情がひび割れて——「ここにいたい」と思い、「まだ死ねない」と思い、「あなたを失いたくない」と思い——そして今、たどり着いた。


 生きたい。


 能動的に。自分の意志で。「死にたい」の反対ではなく、「まだ死ねない」の延長でもなく——「生きたい」を、選んだ。


 あなたと。この世界で。


「リーリエ——」


 カインの声が詰まった。


「だから」


 リーリエの頬を涙が伝った。自分でも気づかないうちに、涙が溢れていた。泣いているのだ。いつ以来だろう。教会にいた頃ですら泣かなかった。泣く感情すら凍結していた。


 今、溶けた。すべてが溶けた。


「だから、世界を捨てないで。私が生きたいのは、あなたのいるこの世界だから。あなただけの世界じゃなくて——あなたと、この世界で。リュカがいて、魔王城があって、朝日があって、星空があって——みんながいる場所で。生きたい」


 涙が止まらなかった。堰を切ったように、次から次へと。頬を伝い、顎から落ち、膝の上の手に落ちる。


 カインの深紅の瞳から、涙がこぼれた。


 一筋。


 五百年間、泣いたことがなかった男の頬を、涙が伝った。月明かりと夜明けの光が混じる中で、その雫が光った。一粒の涙が、五百年分の重さを持っていた。


「……泣いてない」


 カインが掠れた声で言った。声が裏返っている。


「泣いているわ」


「泣いてない。目にゴミが入っただけだ」


「嘘つき」


 リーリエは立ち上がった。


 ふらつく身体を押して、カインの前に立った。椅子に座ったままのカインを見下ろし——そのまま、腕を伸ばした。


 初めて、自分から。


 カインの頭を抱きしめた。


 銀灰色の髪がカインの顔を覆う。カインの鼻先がリーリエの胸元に触れる。紋章の金色の光が、二人を包む。温かい光。聖女の冷たい白銀ではない、生きる意志の金色。


「嘘つき」


 もう一度囁いた。リーリエの声も震えている。涙声。けれど——笑っている。泣きながら、笑っている。


 カインの腕が、ゆっくりとリーリエの腰に回った。力を込めて——けれど壊さないように。五百年分の孤独と後悔と恐怖を、全部抱え込んだまま、この細い身体を抱きしめた。


「——生きたいと、言ったな」


「言った」


「本当か」


「本当よ。嘘だと思う?」


「……思わない」


 カインの腕に力が入った。


「俺も——」


 声が詰まった。五百年間、自分の幸福を許さなかった男が、自分の願いを口にしようとしている。


「俺も、お前と——」


 続きは声にならなかった。けれどリーリエには聞こえた。腕の震えから。呼吸の温度から。紋章が共鳴する金色の光から。すべてが、言葉よりも雄弁に語っていた。


 窓の外で、夜が明けた。


 東の空に光が射し、森の木々が影を伸ばし、鳥が一羽鳴いた。世界が目覚める音。新しい朝が、二人を照らす。


 リーリエは生きたいと言った。カインはその言葉を、五百年の涙とともに受け取った。


 死にたがりの聖女の物語は——この瞬間、決定的に変わった。


 紋章の金色の光が、静かに、しかし確かに灯り続けている。リーリエの「生きたい」という意志に応えるように。炉が聖女の生きる意志に共鳴した——その事実が、やがて第三の道の真の鍵となる。


 けれど今は。今はただ、泣いている二人がいるだけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。