世界を捨てる覚悟
戦いの後の静寂は、いつも耳が痛い。
戦闘中は音が溢れている。剣戟、叫び声、魔法の炸裂、土煙。五感が限界まで研ぎ澄まされ、考える暇もなく身体が動く。けれど戦いが終わった瞬間、音が消える。残るのは——呼吸と、心臓の鼓動と、遠くで燻る火の匂いだけ。
森は沈黙していた。教会軍が退いた後、鳥の声すら聞こえない。木々が教会軍の松明に炙られた焦げ臭さが、まだ空気に残っている。月明かりが窓から射し込み、隠れ家の床に白い長方形を描いている。
カインとリーリエは、並んで座っていた。
椅子が二つ。古びた木の椅子に、傷ついた男と、消耗した少女。カインの脇腹に巻かれた包帯に、薄く血が滲んでいる。リーリエの紋章は微かに揺らいでいるが、暴走の気配はない。リュカは外で見張りについている。二人きりの、静かな時間。
二人とも限界に近い身体を、椅子の背に預けていた。戦いの前には感じなかった疲労が、今になって一気に押し寄せてくる。筋肉が強張り、呼吸が重い。
長い沈黙だった。
五分か、十分か。あるいはもっと長かったかもしれない。互いの呼吸だけが、部屋の空気を揺らしている。窓の外で風が木の枝を揺らす音が、遠く聞こえた。
リーリエは待っていた。
カインの横顔を見つめていた。月明かりに照らされた横顔。強い顔立ちに、今は疲労と——何か、決定的な感情の重みが載っている。何かを言おうとしている。何かを——ずっと、胸の奥に溜め込んでいたものを、吐き出そうとしている。
リーリエにはわかった。数百話——いや、数百日をこの人と過ごして、わかるようになった。カインの沈黙には種類がある。考えている沈黙。怒っている沈黙。照れている沈黙。そして——言葉を探している沈黙。
今は、最後のものだった。
カインが、口を開いた。
「……リーリエ」
名前を呼んだ。一瞬の間もなく。初代聖女の名を呼びそうになる癖は——もう、消えていた。リーリエはそのことに気づいていた。いつからか、カインはリーリエの名前をまっすぐに呼ぶようになった。迷いなく。ためらいなく。
リーリエが顔を上げた。
カインは正面を見つめていた。窓の外の闇を。しかしその深紅の瞳には、闇ではなく——何か、もっと深いものが映っていた。五百年分の記憶。初代聖女の死。孤独な旅。リーリエとの出会い。そのすべてが、この一瞬に凝縮されている。
「お前を救えるなら」
声は低く、掠れていた。喉から絞り出されるような。
「世界がどうなってもいい」
言葉が、部屋の空気を凍らせた。
それは英雄の宣言ではなかった。世界を守る戦士の覚悟でもなかった。追い詰められた一人の男の、感情の決壊だった。ダムが壊れるように。防壁が崩れるように。
五百年間、世界のために戦ってきた男。聖女を救うために、世界を救う方法を探し続けた男。「第三の道」という、世界とリーリエの両方を救う道を求めてきた男。
その男が——「世界を捨てる」と言った。
五百年分の使命も。初代聖騎士としての誇りも。エルシェの死を無駄にしないという誓いも。すべてを投げ捨てて、リーリエ一人を選ぶと。
「カイン——」
「聞け」
カインの声に力が入った。しかし、それは威圧ではなかった。絞り出すような、内臓を引き裂くような声だった。言葉を発するたびに、胸の奥から生々しい痛みが溢れ出ているような。
「俺は五百年間、方法を探してきた。誰も犠牲にしない道を。世界も聖女も救える方法を。そのために生きてきた。贖罪のために。使命のために」
カインの拳が膝の上で白くなる。骨が軋むほど握り込んでいる。
「けど——もう、理屈じゃないんだ」
声が震えた。五百年間、泣いたことがなかった男の声が。
「お前が苦しんでいる。消耗していく。目の前で、命が削られていく。紋章が暴走して、意識を失って、蒼白な顔で——大丈夫、なんて嘘をつく。あの日と同じだ。エルシェのときと。俺はまた、何もできずに見ているだけで——」
言葉が途切れた。カインの喉が詰まっている。五百年分の感情が、喉の奥で渋滞を起こしている。
「世界がどうなるか、もう考えられない。お前が死ぬかもしれないという恐怖の前では、世界の存亡なんか——」
カインが顔を上げた。深紅の瞳にわずかに金色が混じり——そこに浮かんでいるのは、涙ではなかった。涙すら出ないほどの、生の感情。怒りと恐怖と悲しみと愛情が、すべて混じり合って、瞳の中で燃えている。
「お前を救えるなら、世界がどうなってもいい。それが、俺の——本音だ」
リーリエの瞳が大きく見開かれた。
薄い青紫の虹彩に、月明かりが映り込む。口が微かに開き、言葉を失っている。
カインの言葉の重さが、全身に浸透していく。ゆっくりと、しかし確実に。「世界を捨てる」——それはカインにとって、五百年分の生き方のすべてを否定する宣言だった。世界のために戦い続けた五百年を。エルシェの犠牲の意味を。すべてを投げ捨てて、リーリエ一人を選ぶ。
それは途方もない愛の告白であり、同時に——途方もない絶望の表れだった。
リーリエの目に涙が滲んだ。
嬉しいのではない。悲しいのでもない。カインの感情の噴出に——心が、揺さぶられている。この人が、どれほどの恐怖と戦ってきたか。どれほどの孤独を抱えてきたか。そのすべてが、今、剥き出しになっている。
「……カイン」
リーリエは名前を呼んだ。静かに。しかし確かに。声が震えていた。
カインが顔を上げた。疲労と恐怖と、行き場のない愛情に塗れた顔を、リーリエに向けた。無防備な顔だった。五百年の鎧を脱ぎ捨てた、ただの男の顔。
リーリエの唇が動いた。しかし、言葉にならなかった。胸の奥で何かが膨らんでいる。カインの告白を受け止めて——そこから、自分の答えが生まれようとしている。
まだ形にならない。でも、確かに——ここにある。胸の奥の、一番深い場所で。
「……カイン」
もう一度、名前を呼んだ。
それだけが、今リーリエにできるすべてだった。
月が窓の外を横切り、部屋の光が移ろう。二人の影が壁に伸びている。寄り添うように。
リーリエの答えは——次の朝に。




