教会軍の包囲
森が、揺れている。
木々の間を駆け抜ける足音が、四方から迫っていた。金属の擦れる音。号令の声。松明の光が闇の中で揺れ、森の影を鋭く切り裂いている。木の幹に反射する橙色の光が、不規則に明滅する。
教会軍だった。
「旦那様、包囲されてます」
リュカが窓から戻り、低い声で報告した。琥珀色の瞳に、松明の光が映り込んでいる。いつもの軽口はない。
「数は」
「五十から六十。重装の聖騎士が十前後。あとは一般兵と思しき連中。……本気っすよ、あいつら。前回とは規模が違う」
カインは唇を引き結んだ。新たな拠点に移ってからわずか数日。前回より早い。教会は確実に包囲網を狭めている。魔力痕跡の追跡技術が向上しているのか、あるいは——教会内部に、カインたちの動向を伝えている者がいるのか。
「退路は」
「ない。四方から来てる。森の奥に逃げても、この規模なら追いつかれる」
「リーリエ」
振り返ると、リーリエが寝台から身を起こしていた。顔色は昨日よりましだが、まだ蒼白い。紋章が微かに揺らいでいる。
「聞こえていた。教会軍ね」
「動けるか」
「……正直に言えば、走るのは厳しい。長距離の移動は——身体が持たないと思う」
リーリエは正直に答えた。嘘をつくなとカインに言われたから——ではない。もう、嘘をつく理由がなかった。対等なパートナーとして、正確な情報を共有することが、二人の生存に関わる。
カインの顎が強張った。逃げるという選択肢が、事実上消えた。リーリエの身体では長距離の移動に耐えられない。馬車を使うにも、包囲を突破しなければならない。
「俺が片付ける」
カインが立ち上がった。外套を翻し、扉に向かう。深紅の瞳に金色が混じっている。戦闘態勢。五百年分の魔力が、身体の中で渦を巻いている。
「一人で行かないで」
リーリエの声が、カインの足を止めた。
振り返る。リーリエが寝台の上から、真っ直ぐにカインを見つめていた。薄い青紫の瞳に、恐怖と——怒りに似た感情が灯っている。
「お前は動けない。ここにいろ」
「だから、ここで一緒に戦うの」
「戦うって、お前に戦闘力は——」
「あるわ。結界を操れる。この隠れ家の周囲に防壁を張ることくらいはできる。あなたが前で戦っている間、後ろを守る。あなたの背中を」
カインは反論しようとした。リーリエの身体に、これ以上の負荷をかけたくない。結界の操作は紋章を通じて行う。それは命を使うということだ。
けれどリーリエの目が——かつての虚ろな目ではなく、意志の炎が宿った目が、カインを射抜いていた。「守られるだけ」の聖女は、もういない。
「……わかった」
言い負かされたのではない。認めたのだ。リーリエはもう、守られるだけの存在ではない。対等なパートナーだ。
「リュカ、リーリエの補助を頼む」
「了解っす」
カインは隠れ家の扉を蹴り開けた。
夜の森に飛び出す。月明かりと松明の光が交錯する中、教会軍の兵士たちが一斉にカインに視線を向けた。黒い外套が夜風に翻る。深紅の瞳が闇の中で光る。
「魔王だ!」
声が上がる。恐怖と敵意が混じった叫び。五百年間、この世界の敵として語り継がれてきた存在。
カインは剣を抜かなかった。代わりに、右手を掲げ、深紅の魔力を解放した。
衝撃波が放射状に広がり、前列の兵士たちを薙ぎ倒す。松明が宙を舞い、号令が悲鳴に変わる。五百年の魔力と、それを制御する初代聖騎士の技。一人の兵士も殺さず——しかし圧倒的な力で、教会軍を押し返していく。
カインは人を殺さない。五百年前、聖騎士だった頃の矜持が——今も残っている。
だが、聖騎士は違った。
重装の甲冑に守られた十人の騎士が、衝撃波を聖なる盾で弾き、カインに向かって突進してくる。聖なる力で鍛えられた剣が、カインの魔力と火花を散らす。白銀の剣光と深紅の魔力光が、夜の森で激突する。
一人目の剣を払い、二人目の突きを躱し、三人目の盾を蹴り飛ばす。身体が記憶している。五百年の戦闘経験が、思考より先に身体を動かす。
けれど——四人目の剣が、カインの脇腹を掠めた。
「——ッ」
血が飛ぶ。浅い傷だが、反応が遅い。疲労が蓄積している。リーリエの看病で眠れなかった夜。魔力の消耗。心の動揺。すべてが、カインの動きを鈍らせていた。全盛期の自分なら、十人の聖騎士など目を瞑っても——
五人目を打ち倒し、六人目を投げ、七人目の剣を奪い取る。残りの三人が後退を始めた。カインの圧倒的な力に、聖騎士ですら恐怖を覚えたのだ。
一般兵はすでに森の奥に退いている。包囲は崩壊した。
カインは肩で息をしながら、隠れ家に戻った。脇腹を押さえた手が赤い。外套の裾にも血が滲んでいる。
扉を開けると、リーリエが椅子に座っていた。紋章が微かに光っている——隠れ家の周囲に防壁を張っていたのだ。結界操作の副産物として、額に汗が浮かび、息が上がっている。命を使って、カインの背中を守っていた。
「……無茶をして」
リーリエが、カインの脇腹の血を見て言った。眉を寄せ、唇を引き結んでいる。
「お前に言われたくない」
カインが椅子に崩れるように座った。脇腹を押さえると、手が赤く染まる。
リーリエが布と水を持ってきて、カインの傍に膝をついた。丁寧に血を拭い、布を巻く。その手つきは慣れていなかったが、丁寧だった。指先が微かに震えている——怒りか、心配か。おそらく両方。
「痛い?」
「痛くない」
「嘘ね」
リーリエの指が傷口に触れ、カインが微かに身を引いた。
「——やっぱり痛いじゃない」
「触り方が下手なんだ」
「初めてなのだから仕方ないでしょう。文句を言うなら自分で巻きなさい」
「いや、お前が巻け。……もう少し優しく」
リーリエが包帯を巻き終え、端を結んだ。不揃いだが、しっかりした巻き方。
リーリエが傷口にそっと顔を近づけた。カインが身を固くする。
「……何をしている」
「治癒の祈り。効くかはわからないけど」
唇が動き、古い聖句が囁かれる。教会で教わった祈りの言葉。聖女の力は治癒には向かないが、祈りそのものには——温かさがあった。リーリエの息がカインの脇腹にかかる。
カインの耳が赤くなった。頬にも赤みが差している。
「……効いてるのか、それ」
「さあ。でも、気持ちは込めたわ」
リーリエが微かに笑った。力のない笑みだったが、その目に——戦いの前にはなかった光が宿っていた。共に戦った。一人で行かせなかった。対等に。
リュカが戸口から覗いて、小声で呟いた。
「……俺、邪魔っすね。外見てきます」
誰にも聞こえなかった。あるいは、聞こえないふりをした。
教会軍は退いた。しかし傷ついた二人だけが残った。
リーリエがカインの傍に座り、手を握った。今度は、リーリエのほうから。
二人きりの夜が、静かに更けていく。この夜の果てに——カインが、口を開く。




