初代聖女の影
夜が深まると、カインは一人になる。
それは五百年間変わらない習慣だった。陽が落ち、周囲が寝静まると、カインは眠れないまま闇と向き合う。かつては旅の焚火の傍で。魔王城では書庫の片隅で。そして今は——隠れ家の屋根の上で。
星空が広がっていた。森の上に浮かぶ無数の光点。結界が薄いこの地域では、星の光がいつもより鋭く見える。結界が天空の光すら和らげていることを、この場所にいると実感する。守られている世界と、守られていない世界の境界。
カインは屋根の端に座り、膝を抱えていた。五百年を生きた男がする姿勢ではない、と自分でも思う。剣を持てば軍隊を退ける力がある。古代の知識で世界の秘密を解ける。けれど今夜は、格好をつける余裕がなかった。精神の防壁が、疲労と恐怖で薄くなっている。
リーリエの寝顔が脳裏に浮かぶ。
蒼白い肌。力のない呼吸。揺らぐ紋章。意識を失い、数時間戻らなかった身体。大丈夫、と繰り返す掠れた声。その下に隠された痛みと恐怖。「ほら、温かいでしょう。生きているわ」と言って、カインの手を自分の頬に当てた、細い指。
あの温もりが——消えるかもしれない。
——重なる。
五百年前の光景が、記憶の奥から這い出してくる。封じていた記憶の蓋が、疲労のせいで緩んでいる。
エルシェ。金色の髪が炉の光に照らされていた。深い翠色の瞳がカインを見つめていた。穏やかに、そして悲しげに。
「——ごめんなさい、カイン。時間がなかったの」
あの声が、今も耳に残っている。五百年経っても、一音も褪せない。夢の中で何度も聞いた。夜の闇の中で何度も再生した。
「待ってくれ。まだ方法がある。俺が——」
「ないの。あなたは知っているでしょう。今、ここで誰かが命を捧げなければ、結界は崩壊する。世界が終わる」
「世界なんかどうでもいい! お前が——」
「どうでもよくないわ。あなたは知っている。この世界には、守るべき人がたくさんいる」
エルシェはそう言って微笑んだ。最後の微笑みだった。穏やかで、芯の強い、エルシェらしい笑顔。けれどその頬には涙が伝っていた。生きたかった。この人も、本当は生きたかったのだ。
そして炉に向かって歩き出した。カインが手を伸ばした。届かなかった。指先がエルシェの金色の髪を掠め——するりと抜け、光の中に消えていった。あの髪の感触が、五百年経った今も指先に残っている。
「——」
カインは目を閉じた。
五百年。
五百年間、あの瞬間を繰り返し見てきた。夢の中で。夜の闘の中で。一人きりの書庫で。何千回、何万回と。「もし」を考えた。もしあのとき、もう一歩早く手を伸ばしていたら。もし第三の道の研究がもう少し進んでいたら。もし教会を説得できていたら。
「もし」は何も変えない。エルシェは死に、カインは生き残り、聖女制度は五百年続いた。
そしてあの瞬間の後悔が——カインのすべてを駆動してきた。第三の道を探し続けた。聖女を犠牲にしない方法を求めて、世界中を放浪した。五百年間。たった一人で。いや、途中からリュカがいた。けれど目的を共有していたのは、カインだけだった。
それなのに。
今、リーリエが——同じように、消えようとしている。
リーリエの衰弱する姿が、エルシェの最期と重なる。紋章が揺らぐたび、エルシェの身体が光に溶けていくあの瞬間が蘇る。リーリエの「大丈夫よ」が、エルシェの「ごめんなさい」に変わる。意識を失ったリーリエの蒼白い顔が、炉に向かうエルシェの涙に濡れた横顔に重なる。
何もできなかった。あのときも。
今度もまた——何もできないのか。
第三の道の試行は失敗した。原因は判明したが、解決策はまだ見えない。リーリエの身体は消耗し続けている。教会は追撃の手を緩めない。時間がない。
「——何としてでも」
カインは呟いた。声が闇に吸い込まれていく。星だけが聞いている。
「リーリエを、救う」
その想いが、理性の枠を超えて膨らんでいく。救うために何が必要か。第三の道の完成。祈りの収集。橋渡しの完成。教会との対立。すべてに時間がかかる。しかし時間がない。リーリエの身体が持たない。
ならば——
ならば、他のすべてを捨ててでも。
世界を守ることが、カインの五百年間の使命だった。エルシェの死を無駄にしないために。聖女の犠牲を終わらせるために。世界を救い、聖女を救う——その両立が、カインの戦いだった。
けれど今、カインの中で何かが境界を越えた。英雄としての理性でも、元聖騎士としての使命感でもない。もっと原始的な、もっと生々しい感情。
リーリエを失いたくない。
世界の存亡よりも。使命よりも。贖罪よりも。
その一点だけが、五百年分の後悔と恐怖を燃料にして、灼熱のように燃えていた。
屋根から下りたのは、夜明け前だった。身体が冷えている。夜露に濡れた外套が重い。
リーリエの部屋の前で足を止めた。扉は薄く開いている。月明かりが寝台を照らし、リーリエの銀灰色の髪が枕の上に広がっていた。光の加減で淡い紫に見える。
カインはそっと部屋に入り、リーリエの枕元に立った。
眠っている。呼吸は穏やかだ。紋章の揺らぎは落ち着いている。蒼白い肌に月明かりが落ち、リーリエの横顔を銀色に染めている。まつ毛が長い。こんなに華奢な身体で、世界を支えている。こんなに若い少女が、五百年の制度の重みを背負っている。
カインの手がリーリエの髪に触れた。銀灰色の、光の加減で淡い紫に見える髪。指の間をするりと通り抜ける、絹のような感触。
——エルシェの髪は、金色だった。この髪は、銀灰色だ。
二人は違う。カインはそれを、頭では理解している。けれど心は——心は、「また失う」恐怖に支配されている。
「……死なせない。何があっても」
その声は甘さと決意と恐怖が混じり合った、カイン自身にも制御できない響きだった。
リーリエは眠ったまま、かすかに身じろぎした。無意識に、カインの手のある方向に頭を傾ける。温もりを求めるように。
カインは手を引いた。
そして部屋を出た。
廊下で壁に背を預け、天井を仰ぐ。木目が暗闇の中にぼんやりと見える。
「世界か、リーリエか」——その問いの答えを、カインは出そうとしていた。
五百年間、「世界も聖女も救う」と信じて戦ってきた。けれど今——両方を救えないかもしれないとき、カインはどちらを選ぶのか。
答えは、もう出ていた。




