大司教の嘲笑
書簡は、夜のうちに届いていた。
嫌な予感が朝の空気に漂っていた。リュカの表情がいつもと違う。軽口がない。琥珀色の瞳が警戒の色を帯びている。尖った耳が前方に向いている——何かを聞き取ろうとしている。
リュカが森の外れで見つけたのだという。木の根元に、見つけやすいように置かれていた。封蝋に押された大司教の紋章——教会の最高権力者の印。朱色の蝋に、杖と炎を組み合わせた紋章が鮮やかに浮かんでいる。
わざと見つかるように配置されていた。彼らの居場所はまだ正確には特定されていないが、大まかな範囲は掴まれている。教会の追跡は着実に進んでいる。
カインは一人で書簡を開いた。
朝の光が隠れ家の窓から射し込む中、大司教グレゴリウス・ヴァン・オルデンの端正な筆跡が、羊皮紙の上に整然と並んでいた。一文字の乱れもない。この男は、感情に揺さぶられることがないのだろう。あるいは、感情を切り捨てる訓練を積んでいるのだろう。
「——『カイン殿。聖女の容態が思わしくないと聞き及んでおります。さもありなん。聖女は炉の傍にあってこそ、その命を最も効率的に世界の維持に捧げることができるのですから』」
カインは無言で読み進めた。拳が、知らぬ間に握り込まれていく。
「——『あなた方の試みは承知しております。第三の道——聞こえは良い。しかし結果はどうでしたか。失敗したのでしょう。そして聖女の身体は、その愚行の代償を払っている』」
試行の失敗を知っている。当然だ。魔力の痕跡を追跡しているのだから、試行の結果も察知しているだろう。教会の情報力を甘く見てはいけなかった。
「——『お聞きください。聖女を炉にお戻しいただければ、彼女の苦しみは軽減されます。炉の傍にあれば、命の消費は安定し、結界も回復する。世界も救われ、聖女も苦しまずに済む。これは脅迫ではありません。純然たる事実です』」
カインの指が、羊皮紙を握りしめた。紙が軋む音がする。
「——『あなた方の行いこそが、彼女を苦しめているのです。お前たちの愚行が彼女を殺すのだ——そのことを、よくお考えください』」
最後の一文だけ、敬語が崩れていた。端正な仮面の下から、冷たい確信が覗いている。大司教はこの言葉を、意図的に敬語から崩したのだ。カインの心に刺さるように。感情を揺さぶるために。
カインは書簡を机に置いた。
一理ある。
それが、最も苦しい部分だった。
大司教の言葉は——一部は、正しい。リーリエを炉に戻せば、結界は安定する。リーリエの消耗も緩やかになる。即座に死ぬことはない。世界は守られる。人々は苦しまなくて済む。ガルドの羊飼いの少年も。エストールの老人も。ヴァイスの騎士たちも。
その代わりに、リーリエの命が燃料として消費され続ける。数年か、十数年か——命が尽きるまで。そして命が尽きたとき、結界は崩壊し、世界は終わる。
それは「救い」ではない。カインにはわかっている。けれど、今この瞬間にリーリエが苦しんでいるのは事実で、その原因の一端がカインたちの「行動」にあることも——否定できない。
試行は失敗した。リーリエの身体は限界に近い。第三の道の完成はまだ遠い。
この状況で、自分たちは正しいのか。
「旦那様」
リュカの声。カインは顔を上げなかった。書簡を見つめたまま。
「お嬢が来ますよ。……その顔、見せないほうがいいんじゃないすか」
カインは無理やり表情を整えた。整えたつもりだった。けれど五十年の付き合いがあるリュカには、その無理が透けて見えているだろう。
リーリエが部屋に入ってきた。昨日よりは顔色がましだが、足取りはまだおぼつかない。壁に手をつきながら、慎重に歩いている。リュカが差し出した椅子に座り、机の上の書簡に目を留めた。
「それは?」
「何でもない」
「嘘ね。大司教の紋章が見える。朱色の封蝋は、隠しようがないわよ」
リーリエは手を伸ばし、書簡を取った。カインは止めなかった。止めても無駄だと知っていたから。この少女は、知ることを恐れない。真実を直視することを、自分に課している。
リーリエは黙って読んだ。一行一行、丁寧に。表情は変わらない。淡々と、事実を受け止めるように。教会で培われた冷静さが、この瞬間に発揮されている。
読み終えて、書簡を机に戻した。
「……よくできた文章ね。最後の一文だけ敬語を崩すあたり、計算が行き届いている」
その声は平静だった。しかし目が——目だけが、静かに怒っていた。凍結した感情の下の、深い怒り。
「これに揺れてはだめよ」
リーリエがカインを見つめた。薄い青紫の瞳に、炎のような光が宿っている。
「大司教の論理は正しく聞こえる。でも、それは前提が間違っているの。『聖女の命を燃料にする制度』を受け入れた上での正しさ。その前提そのものが、間違っている」
「……わかっている」
カインの声に、確信がなかった。リーリエにはそれが聞こえた。五百年分の使命感と、今この瞬間のリーリエの苦しみが、カインの中で衝突している。
リーリエは立ち上がった。ふらつく身体を押さえ、書簡を手に取り——破った。
びり、と。乾いた音が部屋に響く。二つに。四つに。八つに。大司教の端正な筆跡が、紙片になって机の上に散らばった。計算された言葉が、ただの紙屑になる。
「こんなものに、惑わされないで」
その手をカインが掴んだ。破れた紙片を握ったままの、細い手を。
「……お前は、強いな」
カインの声が、掠れていた。
「あなたがいるからよ」
リーリエは答えた。迷いなく。
カインはリーリエの手を離さなかった。破れた書簡の紙片が、二人の手の間からはらりと落ちた。白い紙片が、床に舞い散る。
リュカが黙って紙片を拾い集め、暖炉に放り込んだ。ぱちぱちと音を立てて、大司教の言葉が灰になっていく。赤い炎が紙を呑み込み、黒い灰に変えていく。
「さて、と」
リュカが手を払いながら振り返った。
「朝飯にしましょうか。腹が減ってちゃ、正しい判断もできないっすよ」
いつもの軽い声。けれど、その琥珀色の瞳だけは——真剣だった。
カインは書簡の灰を見つめていた。暖炉の中で、最後の紙片が燃え尽きる。大司教の言葉は燃えて消えた。けれどその論理は——まだ、胸の奥に刺さったままだった。
刺を抜くには——答えが要る。大司教の論理を超える、もっと強い答えが。




