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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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二度目の喪失

 リーリエは回復した。


 朝の光が窓から差し込み、隠れ家の部屋を白く照らしている。昨夜の嵐のような紋章の暴走が嘘のように、今は穏やかな秋の朝だった。


 少なくとも、表面上は。意識は戻り、言葉を交わし、水を飲み、リュカが作った粥を少量口にした。紋章の暴走は収まり、脈動は弱々しいながらも規則的に戻っている。身体を起こし、寝台の上に座ることもできた。


 それでも、カインの表情は晴れなかった。


 窓辺に立ち、外を見つめている。背中がいつもより丸い。五百年を生きてきた男の背中には、今、途方もない重さがのしかかっていた。肩甲骨の間に力が溜まり、首が僅かに前に傾いている。疲労だけではない。何かを——耐えている背中だった。


 リーリエは寝台の上から、その背中を見つめていた。


 昨夜の紋章の暴走で、リーリエが意識を失ったのは数時間。けれどカインにとっては——永遠に等しい時間だっただろう。目を覚ましたリーリエが最初に見たのは、目の赤いカインの顔だった。泣いていたのかと聞けば、泣いていないと答えた。寝ていないだけだと。


 嘘つき。


 リーリエにはわかる。この人の嘘は、いつもわかりやすい。


「カイン」


 声をかけた。カインが振り返る。


 その目に、リーリエは息を呑んだ。


 深紅の瞳の奥に、五百年分の恐怖が渦巻いていた。普段は皮肉と無愛想で覆い隠している感情の奔流が、今は隠しきれずに滲み出ている。疲労と睡眠不足が、カインの精神的な防壁を薄くしているのだろう。鎧を脱いだ騎士のように、剥き出しの感情がそこにある。


「……大丈夫か」


 カインが聞いた。リーリエに向けた言葉。けれど本当に大丈夫でないのは、カインのほうだった。


「大丈夫よ。もう痛みもないわ」


「そうか」


 短い返事。カインは窓辺から動かなかった。リーリエの傍に来ようとしない。いや——来られないのだ。


 リーリエにはわかった。カインの目に、自分以外の誰かが映っている。銀灰色の髪ではなく、金色の髪。薄い青紫の瞳ではなく、深い翠色の瞳。五百年前に、同じように命の灯火が消えかけた人。


 エルシェ。


 カインの中で、過去と現在が重なっている。リーリエの姿がエルシェに重なり、この部屋がエルシェのいた部屋に重なり、リーリエの蒼白い顔がエルシェの最後の微笑みに重なっている。


「また……救えないのか」


 カインが呟いた。


 声は低く、掠れていた。独り言のようでありながら、リーリエに聞こえるように——いや、聞こえてしまうほどに、心の防壁が崩れていた。


 五百年前。エルシェが炉に向かうのを止められなかった。何もできなかった。目の前で、愛した人の命が炉に呑まれていった。


 そして今、リーリエの命が——同じように、炉に吸われていく。


「また同じことを繰り返すのか。五百年かけて、何も変わっていないのか」


 カインの拳が白くなった。窓枠を握る手が震えている。木枠が軋む音がする。


 リーリエは寝台の上で身を起こした。身体は重い。頭がふらつく。けれど、動かなければならなかった。今、この人を放っておいてはいけない。


「カイン」


「横になっていろ」


「いいから、こっちにいらっしゃい」


 リーリエはベッドの隣を叩いた。ぽんぽん、と。招くように。子供をあやすような仕草だと自覚していたが、構わなかった。


 カインは動かなかった。窓枠を握ったまま。リーリエはもう一度叩いた。


「……座るだけでいいから」


 長い沈黙の後、カインが窓辺から離れた。重い足取りでリーリエの傍に来て、寝台の端にぎこちなく腰を下ろす。寝台が軋んだ。カインの体重を受けて、古い木枠が音を立てる。


 リーリエはカインの手を取った。大きな手。硬い手。五百年の歳月が刻まれた手。震えている手。


 その手を持ち上げ、自分の頬に当てた。


「ほら。温かいでしょう」


 カインの指が、リーリエの頬の温度を感じる。生きている温度。血が巡り、心臓が打ち、呼吸をしている証。昨夜は氷のように冷たかった手が、今は温かい。


「生きているわ」


 リーリエは静かに言った。


「まだ、ここにいる。私は」


 カインの指が微かに動いた。リーリエの頬を撫でるように。無意識の動作だったかもしれない。掌がリーリエの頬の輪郭をなぞり、顎のラインに沿って下り、また頬に戻る。


「……ああ」


「あなたは五百年前の話をしていたけれど——私はエルシェではないわ」


 カインの目が揺れた。


「私はリーリエ。あなたが崖から拾った、面倒な聖女。死にたがりだったくせに、最近は少し……死にたくないかもしれない、と思っている、面倒な女」


 軽口のつもりだった。けれど声が震えた。自分の言葉に、自分自身が動揺していた。


 死にたくない。


 いつから、そう思うようになったのだろう。教会の祭壇で命を削られていた頃は、死だけが救いだった。崖から身を投げたときは、一瞬の痛みで終わりだと思っていた。


 今は——終わりたくないと思っている。この場所を。この時間を。この人との日々を。


「……お前は」


 カインが口を開きかけ、閉じた。もう一度、開く。


「お前は——面倒だ」


「知っているわ」


「本当に、面倒だ」


「二回言わなくてもいいわよ」


 カインの手が、リーリエの頬からゆっくりと離れた。代わりに、リーリエの手を握った。今度は震えていなかった。


「こっちにいらっしゃい」


 リーリエがもう一度言った。カインの手を引いて。


 カインは躊躇いながらも、リーリエの隣に並んで座った。寝台の上で、肩が触れ合う距離。


 リーリエがカインの手を自分の頬から胸元に持っていき、紋章の上に置いた。鈍い光が、カインの掌越しに伝わる。


「感じるでしょう。私の心臓。紋章の鼓動。まだ動いている」


「……ああ」


「大丈夫。私はまだ、ここにいる」


 リーリエはもう一度言った。


 カインは何も答えなかった。ただ、握った手を離さなかった。


 窓の外で風が吹いている。森の木々が揺れ、木漏れ日が部屋の中に斑模様を描く。穏やかな午後。しかしカインの心の中では、嵐が渦巻いていた。


 リーリエは生きている。まだ、ここにいる。けれど——いつまで。


 この恐怖がやがて——カインを、ある覚悟へと駆り立てることになる。


 しかし今は。


 今はただ、リーリエの手の温もりと、紋章の鼓動を感じていた。


 生きている。まだ。


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