意識の途切れ
朝が来る前に、それは起きた。
夜の最も深い時刻。窓の外は真っ暗で、星さえ雲に隠れている。
カインが椅子でまどろんでいた——正確には、眠ろうとして眠れないまま目を閉じていた——そのとき、握っていたリーリエの手が急に冷たくなった。
氷のように。
目を開ける。
リーリエの左胸の紋章が、激しく明滅していた。白銀の光が不規則に膨張と収縮を繰り返し、まるで暴れ馬のように制御を失っている。光が部屋中を照らし、壁に聖女の紋様が投影されては消える。
リーリエの身体が寝台の上で弓なりに反り、声なき悲鳴が唇の間から漏れた。背中が持ち上がり、指が毛布を掴み、筋が浮き出るほど全身が強張っている。
「リーリエ!」
カインは叫んだ。
紋章の暴走。結界との繋がりが一時的に不安定化し、炉がリーリエから一度に大量の命を引き出そうとしている。いわば、結界の飢餓状態——弱まった結界が、聖女の命を貪るように吸い上げる。蓄積した負荷が臨界を超え、制御を失ったのだ。
リーリエの瞳から光が消えた。薄い青紫の虹彩が虚ろに天井を見つめ、焦点を失い——そのまま瞼が閉じた。
「——リーリエ!」
意識がない。
カインの全身を、氷のような恐怖が貫いた。
——また。
また、この光景を見ている。目の前で命が消えかけている。手を伸ばしても届かない。五百年前の、あの日と同じ。エルシェが炉の中に消えていったあの瞬間。何もできなかった。何も——
違う。まだ死んでいない。まだ間に合う。
カインは両手をリーリエの紋章の上に置き、魔力を注いだ。暴走する紋章を外側から押さえつけ、炉への命の流出を減速させる。直接的な治療ではない——ただの時間稼ぎだ。ダムの穴を手で塞いでいるだけだ。しかし今は、それしかできない。
「リュカ!」
怒鳴った。
隣室で仮眠を取っていたリュカが、寝起きとは思えない素早さで飛び込んできた。栗色の髪が跳ね、琥珀色の瞳が部屋を一瞥する。リーリエの状態を見て、瞳が一瞬で真剣になる。尖った耳がぴんと立った——感情が動いたとき、半霊族の耳は隠せない。
「紋章の暴走っすか」
「ああ。水と薬草を——前にまとめておいた応急用の一式を」
「了解」
リュカが駆け出した。廊下を走る足音がすぐに遠ざかる。
カインはリーリエの傍に座り直し、魔力を注ぎ続けた。リーリエの顔が蒼白を通り越して灰色に近い。唇から血の気が引いている。呼吸は浅く、速い。紋章の暴走は少しずつ収まりつつあるが、リーリエの意識は戻らない。
手を握った。冷たい。昨夜握ったときは温かかった。ほんの数時間前、「壊れてもいい」と言ったとき、この手は温かかった。
「リーリエ。聞こえるか」
返事はない。
「聞こえているなら、戻ってこい」
声が震えていた。カインは自覚していた。震えを止めることができなかった。五百年間、どんな戦場でも声が震えたことはなかった。剣を振るい、魔法を紡ぎ、幾千の敵を退けても——声は常に冷静だった。
今、震えている。一人の少女の、冷たい手を握りながら。
リュカが薬草と水を持って戻り、手際よく処置を始めた。リーリエの額に冷やした布を載せ、薬草を煎じた液を少量ずつ唇に含ませる。魔族としての知識と、五十年の従者経験が、危機の中で確かな手を動かしていた。
「旦那様。魔力の注入、ペースが速すぎっす。あんた自身が倒れたら元も子もない」
「わかっている」
「わかってないから言ってるんすよ」
リュカの声には珍しく鋭さがあった。いつもの軽口ではない。本気で心配している。カインのことも、リーリエのことも。カインは僅かに魔力の出力を下げた。
時間が流れた。
一時間。二時間。紋章の暴走は徐々に収まっていったが、リーリエの意識は戻らなかった。カインはリーリエの手を握ったまま、一秒も目を離さなかった。瞬きすら惜しい。この手を離したら、この目を逸らしたら——リーリエが消えてしまう気がした。
非合理的な恐怖だった。手を握っていようがいまいが、紋章の暴走とは関係ない。けれどカインの手は離れなかった。
窓の外が白み始めた頃——
リュカが椅子を持ってきて、カインの隣に座った。
「旦那様」
「……何だ」
「寝てくださいよ。俺が見てますから」
「寝ない」
「知ってましたけど」
リュカはため息をつき、毛布をカインの肩にかけた。カインは振り払わなかった。毛布の温もりが、強張った肩に沁みる。
「……五十年仕えてますけどね、旦那様」
「何だ、急に」
「お嬢が来てから、旦那様は変わりましたよ。良い方に。だから——大丈夫っすよ。お嬢は帰ってきます」
カインは何も答えなかった。
朝日が窓から射し込んだ。
その光がリーリエの顔に落ちた瞬間——閉じていた瞼が、微かに動いた。
「——」
カインの呼吸が止まった。
リーリエの目がゆっくりと開く。薄い青紫の瞳に、焦点が戻ってくる。ぼんやりと。天井が見えた。木目の模様。知らない天井——いや、隠れ家の天井だ。次に——カインの顔が見えた。
「……か、いん」
掠れた声。乾いた唇が動く。
「ここにいる」
カインの声は低く、硬かった。感情を押し込めた声。けれどリーリエは気づいた。カインの目が赤い。充血しているのか。それとも——
「……泣いていたの?」
「泣いてない。寝てないだけだ」
リーリエの唇がわずかに動いた。笑おうとしたのかもしれない。
「ずっと、握っていてくれたのね」
リーリエの視線が、自分の手に落ちた。カインの大きな手に包まれた、細い指。何時間も握り続けたせいで、互いの手の形が馴染んでいる。
「当たり前だ」
カインの声が、低く震えた。手を離そうとしない。リーリエもまた。
「……離さないで」
小さな声だった。消え入りそうなほどに。教会にいた頃なら、決して言わなかった言葉。弱さを見せることを、リーリエは自分に許してこなかった。けれど今は——言えた。
カインは答えなかった。ただ、握る力が少しだけ強くなった。
窓の外で、小鳥が鳴いている。朝日が部屋を柔らかく照らしている。リーリエは生きている。まだ、ここにいる。
——けれど。
カインの中で、恐怖は消えていなかった。
初代聖女エルシェを失ったあの日。炉の前で、手を伸ばしても届かなかった。あのときと、何が違う。今度は手を握っている。けれど、握っているだけで——命が零れ落ちるのを止められない。
「また救えないのか」
その言葉は、心の奥で、静かに膿んでいた。




