↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

269/350

意識の途切れ

 朝が来る前に、それは起きた。


 夜の最も深い時刻。窓の外は真っ暗で、星さえ雲に隠れている。


 カインが椅子でまどろんでいた——正確には、眠ろうとして眠れないまま目を閉じていた——そのとき、握っていたリーリエの手が急に冷たくなった。


 氷のように。


 目を開ける。


 リーリエの左胸の紋章が、激しく明滅していた。白銀の光が不規則に膨張と収縮を繰り返し、まるで暴れ馬のように制御を失っている。光が部屋中を照らし、壁に聖女の紋様が投影されては消える。


 リーリエの身体が寝台の上で弓なりに反り、声なき悲鳴が唇の間から漏れた。背中が持ち上がり、指が毛布を掴み、筋が浮き出るほど全身が強張っている。


「リーリエ!」


 カインは叫んだ。


 紋章の暴走。結界との繋がりが一時的に不安定化し、炉がリーリエから一度に大量の命を引き出そうとしている。いわば、結界の飢餓状態——弱まった結界が、聖女の命を貪るように吸い上げる。蓄積した負荷が臨界を超え、制御を失ったのだ。


 リーリエの瞳から光が消えた。薄い青紫の虹彩が虚ろに天井を見つめ、焦点を失い——そのまま瞼が閉じた。


「——リーリエ!」


 意識がない。


 カインの全身を、氷のような恐怖が貫いた。


 ——また。


 また、この光景を見ている。目の前で命が消えかけている。手を伸ばしても届かない。五百年前の、あの日と同じ。エルシェが炉の中に消えていったあの瞬間。何もできなかった。何も——


 違う。まだ死んでいない。まだ間に合う。


 カインは両手をリーリエの紋章の上に置き、魔力を注いだ。暴走する紋章を外側から押さえつけ、炉への命の流出を減速させる。直接的な治療ではない——ただの時間稼ぎだ。ダムの穴を手で塞いでいるだけだ。しかし今は、それしかできない。


「リュカ!」


 怒鳴った。


 隣室で仮眠を取っていたリュカが、寝起きとは思えない素早さで飛び込んできた。栗色の髪が跳ね、琥珀色の瞳が部屋を一瞥する。リーリエの状態を見て、瞳が一瞬で真剣になる。尖った耳がぴんと立った——感情が動いたとき、半霊族の耳は隠せない。


「紋章の暴走っすか」


「ああ。水と薬草を——前にまとめておいた応急用の一式を」


「了解」


 リュカが駆け出した。廊下を走る足音がすぐに遠ざかる。


 カインはリーリエの傍に座り直し、魔力を注ぎ続けた。リーリエの顔が蒼白を通り越して灰色に近い。唇から血の気が引いている。呼吸は浅く、速い。紋章の暴走は少しずつ収まりつつあるが、リーリエの意識は戻らない。


 手を握った。冷たい。昨夜握ったときは温かかった。ほんの数時間前、「壊れてもいい」と言ったとき、この手は温かかった。


「リーリエ。聞こえるか」


 返事はない。


「聞こえているなら、戻ってこい」


 声が震えていた。カインは自覚していた。震えを止めることができなかった。五百年間、どんな戦場でも声が震えたことはなかった。剣を振るい、魔法を紡ぎ、幾千の敵を退けても——声は常に冷静だった。


 今、震えている。一人の少女の、冷たい手を握りながら。


 リュカが薬草と水を持って戻り、手際よく処置を始めた。リーリエの額に冷やした布を載せ、薬草を煎じた液を少量ずつ唇に含ませる。魔族としての知識と、五十年の従者経験が、危機の中で確かな手を動かしていた。


「旦那様。魔力の注入、ペースが速すぎっす。あんた自身が倒れたら元も子もない」


「わかっている」


「わかってないから言ってるんすよ」


 リュカの声には珍しく鋭さがあった。いつもの軽口ではない。本気で心配している。カインのことも、リーリエのことも。カインは僅かに魔力の出力を下げた。


 時間が流れた。


 一時間。二時間。紋章の暴走は徐々に収まっていったが、リーリエの意識は戻らなかった。カインはリーリエの手を握ったまま、一秒も目を離さなかった。瞬きすら惜しい。この手を離したら、この目を逸らしたら——リーリエが消えてしまう気がした。


 非合理的な恐怖だった。手を握っていようがいまいが、紋章の暴走とは関係ない。けれどカインの手は離れなかった。


 窓の外が白み始めた頃——


 リュカが椅子を持ってきて、カインの隣に座った。


「旦那様」


「……何だ」


「寝てくださいよ。俺が見てますから」


「寝ない」


「知ってましたけど」


 リュカはため息をつき、毛布をカインの肩にかけた。カインは振り払わなかった。毛布の温もりが、強張った肩に沁みる。


「……五十年仕えてますけどね、旦那様」


「何だ、急に」


「お嬢が来てから、旦那様は変わりましたよ。良い方に。だから——大丈夫っすよ。お嬢は帰ってきます」


 カインは何も答えなかった。


 朝日が窓から射し込んだ。


 その光がリーリエの顔に落ちた瞬間——閉じていた瞼が、微かに動いた。


「——」


 カインの呼吸が止まった。


 リーリエの目がゆっくりと開く。薄い青紫の瞳に、焦点が戻ってくる。ぼんやりと。天井が見えた。木目の模様。知らない天井——いや、隠れ家の天井だ。次に——カインの顔が見えた。


「……か、いん」


 掠れた声。乾いた唇が動く。


「ここにいる」


 カインの声は低く、硬かった。感情を押し込めた声。けれどリーリエは気づいた。カインの目が赤い。充血しているのか。それとも——


「……泣いていたの?」


「泣いてない。寝てないだけだ」


 リーリエの唇がわずかに動いた。笑おうとしたのかもしれない。


「ずっと、握っていてくれたのね」


 リーリエの視線が、自分の手に落ちた。カインの大きな手に包まれた、細い指。何時間も握り続けたせいで、互いの手の形が馴染んでいる。


「当たり前だ」


 カインの声が、低く震えた。手を離そうとしない。リーリエもまた。


「……離さないで」


 小さな声だった。消え入りそうなほどに。教会にいた頃なら、決して言わなかった言葉。弱さを見せることを、リーリエは自分に許してこなかった。けれど今は——言えた。


 カインは答えなかった。ただ、握る力が少しだけ強くなった。


 窓の外で、小鳥が鳴いている。朝日が部屋を柔らかく照らしている。リーリエは生きている。まだ、ここにいる。


 ——けれど。


 カインの中で、恐怖は消えていなかった。


 初代聖女エルシェを失ったあの日。炉の前で、手を伸ばしても届かなかった。あのときと、何が違う。今度は手を握っている。けれど、握っているだけで——命が零れ落ちるのを止められない。


「また救えないのか」


 その言葉は、心の奥で、静かに膿んでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。