涙のあと
涙の跡が乾いた後の夜は、不思議に穏やかだった。
リーリエとカインは、隠れ家の窓辺に並んで座っていた。夜明けの光は東の空を染めた後に雲に隠れ、今は曇天の下で森が灰色に沈んでいる。けれど部屋の中は温かかった。暖炉の火が橙色の光を放ち、木の壁に揺れる影を落としている。二人の間にある、名前のつけられたばかりの感情が、部屋の温度を上げていた。
しばらくの間、どちらも何も言わなかった。
泣いた後の、空っぽの安堵。心の器がからっぽになって、新しい水が注がれるのを待っているような。嵐の後の凪。五百年分の嵐と、十七年分の凍結の、その後の静けさ。
カインが先に口を開いた。
「……俺は、ずっとお前を——初代聖女の代わりとして守っていたかもしれない」
その声は平坦だった。独白のように。けれど一語一語に、血が通っていた。言葉を選びながら、慎重に。不器用な男が、不器用に本音を掘り出している。
「エルシェを救えなかった贖罪。二度と同じ過ちを繰り返さないという誓い。お前を拾ったのも——最初は、それだった」
リーリエは黙って聞いていた。口を挟まなかった。この人が自分の言葉で語るのを、待っていた。
「崖から落ちるお前を見て、あの日を思い出した。手を伸ばして、今度は掴めた。それが——俺にとっての、救いだった。お前を守ることが、エルシェの死を帳消しにしてくれるような……そんな錯覚があった」
カインの指が膝の上で組まれ、ほどかれ、また組まれる。落ち着かない仕草。五百年を生きても、感情を言葉にする練習はしてこなかった。
「お前の名前を呼ぶとき、一瞬の間が入ることがあっただろう」
「……気づいていたわ」
「エルシェの名を呼びそうになっていた。無意識に。お前を見ていても——どこかでエルシェを探していた」
カインは膝の上の手を見つめた。大きな手。五百年間、エルシェの手を掴めなかった手。
「でも——今は違う」
カインがリーリエを見た。深紅の瞳。涙の跡が薄く残る頬。無愛想で不器用で、五百年の孤独を纏った男の顔。けれど今、その瞳には——初めて見る光がある。
「お前の名前を呼ぶとき、もうエルシェの名は出てこない。いつからか——お前はお前だけになった。リーリエは、リーリエだ。エルシェの代わりじゃない」
リーリエの胸が、きゅっと締まった。
「お前と、生きたい。贖罪でも使命でもなく。ただ——お前の隣にいたい」
言葉が出た。五百年間、自分の幸福を許さなかった男が、初めて自分の願いを口にした。贖罪ではなく。使命ではなく。ただ純粋に——一人の人間として、もう一人の人間の隣にいたいと。
リーリエは微笑んだ。
目が笑っていない穏やかな笑みではなかった。力が抜けた笑みでもなかった。目尻が下がり、頬がわずかに上がり、薄い青紫の瞳に——光が灯った笑み。かつての虚ろな目から、ここまで来た。
「やっと、言えたわね」
カインが目を逸らした。耳が赤い。頬にも赤みが差している。
「……別に。大したことじゃない」
「大したことよ。五百年かかったのだもの」
「うるさい」
「本当のことでしょう」
リーリエの声は柔らかかった。からかいではなく、祝福のような響き。この人が自分の願いを口にできたことが——嬉しかった。嬉しいと思えることが、嬉しかった。
「ねえ、カイン」
「何だ」
「私も——やっと言えたわ」
リーリエは自分の左胸に手を当てた。紋章は穏やかに脈打っている。あの金色の光は消えたが、揺らぎは昨日よりもずっと小さい。紋章の安定は、リーリエの心の安定と連動している。
「生きたい、って。自分の口から、自分の意志で。ずっと言えなかった。言う資格がないと思っていた。聖女として世界を支えるために生まれた命が、自分のために生きたいなんて——贅沢だと思っていた。わがままだと」
「資格なんかいらない」
カインが遮った。即座に。強く。
「生きたいと願うのに、資格が必要な世界なんか、間違っている」
リーリエは瞬いた。そして——笑った。もう一度、目尻の下がる笑い。
「……そうね。間違っているわ。だから変えるの。私たちが」
カインが頷いた。初めて——二人が同じ方向を見た。
贖罪のためではなく。犠牲のためではなく。生きるために。二人で。
窓の外の雲が薄くなり、曇天の隙間から日差しが射した。森の木々が光を受けて緑に輝く。雨上がりのように葉が濡れて光っている。朝露だった。隠れ家の窓辺が温かくなる。
「これからが本番ね」
リーリエが言った。
「第三の道を完成させなければ。試行は失敗したけれど、手がかりはある。祈りの量と、橋渡しの精度——いえ、橋渡しの鍵は見つかったかもしれない。私の意志が紋章を安定させたこと。あれが答えに繋がるはず」
「ああ。だが今度は、二人でだ」
カインの言葉に、リーリエは小さく頷いた。
「二人で」
繰り返した。その言葉が、約束のように響いた。
「……その」
カインが言いにくそうに口を開いた。深紅の瞳が泳ぎ、頬が微かに赤い。五百年を生きた男が、十代の少年のように言葉を探している。
「これからも……傍にいていいか」
リーリエは呆れたように目を細めた。
「今さら何を言っているの」
「いや、だから——その。確認というか——」
「いいに決まっているでしょう。というか、あなたがいなくなったら困るわ」
「困る、のか」
「困るわ。誰が結界の解析をするの。誰が教会軍を追い払うの。誰が不味い料理を作るの」
「不味いのか」
「不味くないわ。からかっただけ」
カインが安堵したように息を吐いた。からかわれたことに気づき、眉を寄せる。
「……お前は」
「なあに」
「たちが悪い」
「あなたに似たのかもしれないわね」
リーリエの声にはいたずらっぽさがあった。それを聞いたリュカが扉の向こうで噴き出す気配がした。
「それから——」
リーリエは少し考えて、付け足した。照れくさそうに、けれど目を逸らさずに。
「誰が、私の手を握ってくれるの」
カインが固まった。完全に。石像のように。深紅の瞳が見開かれ、口が微かに開いて——閉じる。
リーリエの頬が、ほんの少しだけ赤くなった。自分の言葉に、自分で照れている。
「……忘れて」
「忘れない」
「忘れなさい」
「無理だ」
二人の間に、ぎこちない沈黙が落ちた。けれどその沈黙は——温かかった。暖炉の火よりも。
リュカが扉を開けて顔を出した。満面の笑みで。
「あの、お二人さん。朝飯できてるんすけど——あ、これ邪魔なやつっすか。あとにしましょうか」
「邪魔じゃない。行く」
カインが立ち上がった。リーリエも立ち上がる。ふらつく身体をカインが自然に支えた。もう、支えることに躊躇はなかった。リーリエも、支えられることに抵抗がなくなった。
暖炉の傍で三人が食事をする。リュカの作った干し肉のスープとパン。質素だが温かい朝食。
「お嬢、顔色良くなったっすね」
リュカが笑った。
「……そうかしら」
「ええ。旦那様も——あれ、旦那様も顔色いいっすね。珍しい。何年ぶりすか、そんな穏やかな顔」
カインが無言でスープを啜った。穏やかな顔、という自覚はない。
リーリエはパンをちぎりながら、窓の外を見た。雲間から射す日差しが、森を金色に染めている。
転換点を越えた朝。新しい日が始まる。
これからの戦いは、きっと厳しい。教会との全面対立。真実の公開。民衆の反応。時間との戦い。
しかし——もう、一人ではない。二人で。いや——三人で。
「おかわり、あるっすよ」
リュカがスープの鍋を持ってきた。
リーリエは「いただくわ」と器を差し出した。食欲があるのは、久しぶりだった。




