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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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崩れゆく壁

 魔王城に戻った翌日、報告が届き始めた。


 リュカが各地の情報網から集めた伝書が、次々と情報室の机に積み上がっていく。リュカの情報網は広い。半霊族としての隠密能力と、持ち前の人当たりの良さで築いた人脈が、各地の「異変」を魔王城に届けてくれる。


 リーリエはその一通一通を手に取り、読んでは、机に伏せた。読むたびに、胸の奥が締めつけられる。


 ガルド地方——結界の薄い地域で、夜間に小規模な災厄が侵入。集落の家畜が数十頭死亡。羊飼いの少年が瘴気を吸い込み、意識不明。


 エストール管区南部——結界の亀裂から瘴気が流入。住民に体調不良が広がる。咳が止まらない老人、発疹が出た子供。村の医師では対処できず、教会の治癒士を要請するも、到着は数日後。


 ヴァイスの丘陵地帯——結界の断裂が発生し、低級の魔物が出現。駐留の騎士団が対処するも、負傷者が三名。うち一名は重傷。


「……増えている」


 リーリエの声が震えた。


 結界の弱体化は、以前から報告されていた。リーリエが教会の祭壇を離れ、魔王城で暮らすようになってから——聖女が炉の傍にいないことで、結界維持の効率が落ちているのだ。リーリエの命は今もなお燃料として消費され続けているが、炉との物理的な距離が遠いぶん、結界は薄くなる。


 そして今、試行の失敗による消耗が追い討ちをかけていた。リーリエの身体が弱れば、炉に注がれる命の量も減る。結果として——世界が、代償を払い始めている。


 リーリエは伝書を握りしめた。紙が皺になる。羊飼いの少年。咳をする老人。発疹の出た子供。彼らの顔を知らない。会ったこともない。名前も年齢もわからない。けれど——伝書の文字を読めば、その苦しみが指先から伝わってくるようだった。紙の向こうに、生きている人間がいる。呼吸し、食事し、眠り、朝を迎える——当たり前の日常が脅かされている人間が。


 そしてその苦しみの原因が——


「お嬢、これも来てますよ」


 リュカが新たな伝書を持ってきた。その表情がいつになく硬い。いつもの軽口がない。それだけで、内容の深刻さが伝わってくる。


 教会からの公式声明だった。


「——『結界(ヴェール)の弱体化は、聖女が務めを離れたことに起因する。聖女を聖なる炉にお戻しいただくことが、世界の安寧を取り戻す唯一の道である。教会は全信徒とともに、聖女の帰還を祈り求める』」


 リーリエは声に出して読み上げた。一言一句、丁寧に。大司教グレゴリウス・ヴァン・オルデンの名前が末尾に記されている。教会の最高権力者の公式声明。


 教会の論理は、いつも正しく聞こえる。正しく聞こえるように、設計されている。


 聖女を炉に戻せば、結界は安定する。人々の苦しみは止まる。世界は守られる。


 ——その代わりに、リーリエの命が燃料として消費され続ける。教会はその部分を、決して口にしない。「聖女の務め」という美しい言葉で覆い隠す。


「お前のせいじゃない」


 カインの声が、部屋の入り口から聞こえた。壁に肩を預け、腕を組んでいる。いつからそこにいたのか。リーリエが伝書を読み始めた頃からだろう。


「制度のせいだ。お前が炉にいなくても結界が維持される仕組みを、五百年前に作るべきだった。それを怠った教会の責任だ」


「でも、今この瞬間に苦しんでいる人がいる。家畜を失い、瘴気に蝕まれ、魔物に傷つけられている人が——」


「だからといって、お前が死ねば解決するのか」


 カインの声が鋭かった。怒りではない。恐怖の裏返しだった。リーリエが自己犠牲に傾くことへの。


 リーリエは口を噤んだ。


 解決はしない。リーリエが炉に戻っても、命が尽きるのが遅くなるだけだ。炉の傍にいれば消耗は緩やかになるが、根本的には変わらない。そしてリーリエが死ねば、結界は完全に崩壊する。最後の聖女が死ぬとき、世界は終わる。


「……わかっています」


 頭ではわかっている。けれど、胸が痛い。


 リーリエは伝書を握りしめた。ガルドの集落。エストールの住民。ヴァイスの騎士たち。彼らは何も知らない。自分たちの安全が一人の少女の命の上に成り立っていることを。知らないまま苦しんでいる。


 そしてその苦しみの一因が、リーリエが炉から離れていることにある。それは——否定できない事実だった。


「私のせいで、人が傷ついている」


 呟きは、自分自身に向けたものだった。誰かを責めているのではない。ただ、事実が——胸を刺す。


 カインが壁から背を離し、リーリエの傍に歩み寄った。大きな手がリーリエの頭に載る。ぽん、と。力を込めず、しかし確かに。銀灰色の髪が、カインの掌の下で少し潰れる。


「その頭で余計なことを考えるな」


「余計なことなんかじゃ——」


「余計だ。考えるべきは、これからどうするかだけだ」


 リーリエは見上げた。カインの深紅の瞳が、真っ直ぐに自分を見下ろしている。怒っているのか、心配しているのか——おそらく両方だった。いつもそうだ。この人の怒りは、心配の裏返し。


「自己犠牲の誘惑に負けるな。お前が炉に戻ることは、解決じゃない。先送りだ」


 その言葉が、胸に響いた。


 先送り。そう、リーリエが炉に戻れば、結界は一時的に安定する。けれどリーリエの命が尽きれば、すべてが終わる。根本的な解決にはならない。一人の命を燃やし続ける制度を延命させるだけだ。


 第三の道だけが、本当の答えだ。誰も犠牲にしない結界の形。それを実現すること。


「……ごめんなさい。少し、揺れました」


「揺れてもいい。戻ってくればいい」


 カインの手が、頭からそっと離れた。リーリエの銀灰色の髪が、ふわりと元に戻る。手の温もりだけが残る。


「これからどうするか。それだけを、考えましょう」


 リーリエは伝書を机に置いた。握りしめた皺が深く残っている。その皺を指でなぞりながら、深く息を吐いた。


 ——けれど、世界は待ってくれない。


 次の伝書が届いたのは、その日の夕刻だった。


「旦那様、お嬢。これ、ヤバいっす」


 リュカの声に、いつもの軽さがなかった。琥珀色の瞳から笑みが消えている。


 教会の追撃部隊が、動き始めている。試行の際に発生した魔力の痕跡から、魔王城の位置を特定しつつある——。


 時間は、さらに縮まった。


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