追撃
走れ、とカインは思った。
魔王城の周辺防衛結界が、外側から叩かれている。鋭い衝撃が壁を伝い、天井から埃が落ちた。窓枠が軋み、燭台が揺れる。リュカが跳ねるように立ち上がり、窓の外を覗く。
「斥候より早い——もう来てやがる」
教会の追撃部隊。試行の際に発生した魔力の痕跡から、彼らの所在を特定したのだろう。カインは舌打ちした。結界操作は独特の魔力残滓を残す。それを専門の聖職者が追跡すれば、位置の特定は時間の問題だった。予測はしていた。だが、こんなに早いとは。
「リーリエ。動くぞ」
振り返ると、リーリエが情報室の椅子から立ち上がろうとしていた。顔色が悪い。昨日からの疲労が蓄積している。試行の消耗が、まだ身体に残っているのだ。左胸の紋章が不規則に揺らいでいる。
「支度は最低限でいい。重要な書類と、エルシェの研究ノートだけ持て」
カインは指示を出しながら、城の防衛結界に魔力を注いだ。深紅の魔力が城壁を伝い、追撃部隊の攻撃を跳ね返す。時間を稼ぐ。リーリエを安全な場所に移すまでの時間を。
退避が始まった。
リュカが先導し、魔王城の地下通路を抜ける。この通路はカインが五百年の間に何度か改修した秘密の退路で、城の裏手の森に繋がっている。教会は通路の存在を知らないはずだ。
カインはリーリエの傍を歩きながら、背後の気配に意識を向けていた。追撃部隊は城の防衛結界を突破しようとしているが、カインの結界はそう簡単には破れない。だが、教会の総力が投入されれば——時間の問題だ。
地下通路は薄暗く、壁に嵌め込まれた魔石がかすかに青い光を放っている。石の床は冷たく、足音が小さく反響する。
「カイン」
リーリエの声に、カインは振り返った。
地下通路の薄暗い光の中で、リーリエが壁に手をついていた。足が止まっている。顔が蒼白で、額に汗が浮かんでいる。唇の色もない。
「すみません、少し——」
その瞬間、リーリエの目の焦点が消えた。
膝が崩れる。身体が前に傾く。銀灰色の髪が重力に引かれて垂れ下がり、壁についた手が滑り落ちる。
カインは考えるより先に動いていた。
リーリエの身体を腕で受け止める。倒れかけた華奢な体躯を、片腕で支え、もう片腕で頭を押さえた。リーリエの体重は驚くほど軽い。命を削られ続けた身体は、羽のように儚かった。この軽さが——カインの胸を締めつける。
「——リーリエ」
名前を呼ぶ。一瞬の間もなく。今度は、初代聖女の名が混じることもなかった。リーリエ。この名前だけが、カインの唇から零れた。
「……ん」
かすかな返事。意識はある。ただ、めまいに襲われて身体が言うことを聞かないだけだ。カインは僅かに安堵し——しかし、その安堵を噛み殺した。安堵している場合ではない。
めまい。試行の消耗。結界維持の蓄積負荷。そして教会の追撃。三つが同時に押し寄せている。
「歩ける状態じゃない」
「……大丈夫。少し、ふらっとしただけ——」
「大丈夫じゃない」
カインはリーリエを抱き上げた。横抱きに。軽すぎる身体を、壊れ物を扱うように慎重に。リーリエの頭がカインの肩に預けられる。銀灰色の髪がカインの黒い外套に広がる。
「下ろして」
「黙れ」
一言。短く、硬く。
リーリエは反論しようとして——カインの声が震えていることに気づいた。
ほんの微かな震え。普段の無愛想な声の下に隠れた、押し殺した恐怖。言葉は強いのに、声の奥に脆さがある。リーリエにだけ聞き取れる、かすかな揺れ。
——怖いのだ。この人は。
リーリエのめまいが、カインに五百年前の恐怖を思い出させている。目の前で倒れる人。救えなかった人。あの記憶が、今この瞬間に蘇っている。
リーリエは何も言わず、カインの肩に頭を預けた。抗う気力がないのではない——この人の恐怖を、受け止めたかった。
地下通路を抜け、魔王城の裏手にある森を通り、あらかじめ用意してあった馬車に乗り込んだ。リュカが手綱を取り、急がせる。教会の追撃部隊は城の表側に集中していた。裏手からの脱出には気づいていないはずだ。
馬車が走り出す。揺れに合わせて、カインの腕がリーリエを支える。馬車の振動がリーリエの身体を揺さぶるたびに、カインの腕に力が入る。
リーリエは薄目を開けた。カインの顎のラインが見える。歯を食いしばっている。頬の筋肉が強張っている。
「……カイン」
「喋るな。体力を温存しろ」
「あなたも、怪我がないか心配なのだけれど」
「俺は無傷だ」
「嘘ね。さっき、防衛結界に魔力を注いだでしょう。疲れているはずよ」
「お前が言うな」
リーリエは小さく笑った。笑う力は、まだ残っていた。
数時間の移動の後、一行は新たな隠れ家に到着した。森の奥深くにある狩人の小屋。リュカが以前から目をつけていた場所だった。石造りの頑丈な小屋で、井戸もある。暖炉はあるが煙突が低く、煙を焚けば遠くから見つかる恐れがある。
小屋の中に入り、リーリエを椅子に座らせる。小屋の中は薄暗く、土と古い木の匂いがした。暖炉には火がない。壁に吊るされた狩人の道具が、月明かりにぼんやりと浮かんでいる。
カインが傍に膝をつき、リーリエの顔を覗き込んだ。
「……顔色が悪い」
「大丈夫よ」
「嘘をつくな。目の下に隈ができている」
「それはあなたもでしょう」
カインは言い返せなかった。確かに、カイン自身も疲労の色が濃い。防衛結界への魔力注入と、退避行動と、リーリエの抱擁で——身体は限界に近かった。
リュカが水と乾パンを持ってきた。
「とりあえず、追撃は振り切ったっすよ。森が深いんで、すぐには見つからないはず——でも、試行の痕跡を辿ってきたってことは、教会の追跡技術も侮れない。次はもっと早く来る」
「わかっている」
カインが立ち上がり、窓の外を確認する。森は静かだった。鳥の声が遠くで聞こえる。夕暮れの光が木の葉の隙間から射し込み、森の床に金色の斑点を落としている。
追撃は振り切った。しかし——
カインはリーリエの横顔を見つめた。椅子に座ったまま、水を飲むリーリエ。その手が、微かに震えている。杯を持つ指に力が入っていない。
リーリエの身体は——もう長くは持たない。
その認識が、冷たい石のようにカインの胸に沈んだ。




