設計図は揃った
設計図は、揃った。
その事実は、朝の書庫の空気を変えた。今まで作業机の上に山積みだった資料が、一枚の完成図に集約されている。散らかっていた紙束が片付き、机の木目が久しぶりに見えた。完成とは、散らばったものが一つにまとまることなのだと、リーリエは思った。
リーリエは書庫の机に向かい、最終確認を行っていた。炉の構造図。分散型への変更手順。条件一と条件二の実行計画。
一枚一枚、紙をめくりながら、声に出して確認する。
「条件一。炉の再設計——一点集中型から分散型への構造変更。燃料供給路の分岐点を再構成し、万人の小さな力を受け入れる構造にする。理論的準備は完了。実行手順も概ね策定できた」
リーリエは構造図の中核部分を指で押さえた。エルシェの設計図、歴代聖女の研究記録、そしてリーリエ自身の分析。三つの層が重なって、一枚の完成した構造図になっている。五百年分の知恵と想いの結晶。
それを見つめるたびに、リーリエの胸に歴代聖女たちの顔が浮かぶ。会ったこともない人々。しかし記録の筆跡から、その人となりを感じ取れるようになっていた。
「構造変更は、心炎の内部から行う。供給路の分岐点に順次アクセスし、一点集中型のパラメータを分散型に書き換えていく。必要な時間は——推定で半日から一日」
カインが隣の椅子で聞いていた。
「条件二。聖女の媒介。私が炉の心炎に入り、構造変更の橋渡しをする。方法は——紋章を通じて炉との繋がりを最大まで開放し、心炎の中核に意識を送り込む」
リーリエの声は冷静だったが、カインの拳が膝の上で握り締められた。
「心炎の中核にいる間、通常の数十倍の速度で命が消費される。しかし構造変更が完了すれば、一点集中型の負荷はなくなる。私の命の消費も止まる——理論上は」
「理論上は」
カインが低い声で繰り返した。
「ええ。保証はない。でも、方法は見えているわ」
リーリエは二枚目の紙を脇に置き、三枚目に目を移した。
「そして——条件三」
三枚目の紙は、ほとんど白紙だった。
「万人の祈り」
沈黙が落ちた。
条件一の設計図は揃った。条件二の手順も判明した。しかし条件三——万人の自発的な祈りを集める方法は、白紙のままだった。
「強制では機能しない。人々が自分の意志で、ほんの少しの生命力を分け与える必要がある。分散型の炉は、一人ひとりの『この世界を維持したい』という願いが燃料になる」
リーリエは白紙の紙を見つめた。
「技術でも理論でも解決できない問題。人の心の問題」
カインが立ち上がり、リーリエの背後に回った。肩に手を置く。
「条件一と二は、お前のおかげで道筋が見えた。条件三は——別の方法で考えるしかない」
「ええ」
「だが、今日のところは——よくやった」
カインの手が、リーリエの頭に移った。
ぽん、と——軽く頭を撫でた。
リーリエが目を見開いた。
「……え」
「よくやった」
カインの声は素っ気なかったが、手は優しかった。不器用な、ぎこちない手つき。しかしその指先に、確かな感情がこもっている。
リーリエの頬が赤くなった。
「……子ども扱いしないで」
「子ども扱いじゃない。労いだ」
「頭を撫でるのは子ども扱いよ」
「じゃあどうすればいい」
「どう——って」
リーリエは言葉に詰まった。カインが真剣な顔で聞いているのがおかしくて、そして少し嬉しくて、返す言葉が見つからなかった。
「……別にいいわ。撫でても」
最後は小さな声になった。カインの手がもう一度、軽くリーリエの頭を撫でた。銀灰色の髪が指の間を流れる。
温かい。カインの手はいつも温かい。五百年分の孤独を背負ってきた手が、こんなにも優しく触れることができるのだと、リーリエはいつも不思議に思う。
リーリエは目を逸らした。耳まで赤い。
ふと、書庫の入口で気配がした。リュカが覗いている。
「旦那様、お嬢——いいとこ悪いんすけど、レオンハルト殿が報告があるって」
「……いつからいた」
「最初からっす。頭撫でるとこ全部見てたっす」
カインの顔が赤くなった。リーリエはさらに赤くなった。リュカは満足そうに笑って引っ込んだ。
「……あいつ、後で覚えてろ」
「リュカさんに八つ当たりしないで」
「八つ当たりじゃない。躾だ」
「そ、それより。条件三の話を——」
「条件三は明日だ」
「でも——」
「今日は休め。お前は働きすぎだ」
カインがリーリエの肩を押して椅子から立たせ、書庫の出口に向かわせた。
「明日、全員で議論する。リュカも、レオンハルトも。一人で考え込むな」
リーリエは振り返り、カインを見た。
「……カインさんがそばにいてくれるなら、条件二は怖くないわ」
「ああ。俺がそばにいる。何があっても」
「知ってる」
リーリエは微笑んで書庫を出た。
廊下を歩きながら、頬に残る温もりに手を当てた。
頭を撫でられたのは、いつ以来だろう。教会に引き取られる前、両親がそうしてくれたような——遠い記憶。あの頃は、頭を撫でられると安心した。世界が優しい場所だと信じられた。カインの手にも、同じ温もりがあった。五百年生きた手なのに、不思議なくらい温かい。
設計図は揃った。条件一と条件二の道は見えた。
しかし条件三——万人の祈り。
それは、技術と理論の向こう側にある。人の心に届く方法を、見つけなければならない。
リーリエは窓の外を見た。月が昇っている。
あの月の下に——無数の人々がいる。聖女制度の真実を知らず、教会の言葉を信じて暮らしている人々。
その人々の心に、どうすれば届くのだろう。
頬に、カインの手の温もりの名残がまだ微かにあった。リーリエは頬に手を当て、小さく笑った。
明日、答えを探す。みんなで。




