時間という敵
紋章の揺らぎの頻度を、リーリエは記録していた。
一日に何回、光が乱れるか。乱れの持続時間。伴う身体症状——めまい、脱力、指先の震え。
記録をつけることは、リーリエにとって一種の安定剤だった。数字にすることで、不安が「問題」に変わる。問題には対処法がある。漠然とした恐怖より、数字の方がずっと扱いやすい。アネリーゼが十年間観察日誌をつけ続けた理由が、今ならわかる。
そのデータを書庫に持ち込み、炉の構造図と照らし合わせた。
結果は——。
「加速している」
リーリエの声が、書庫の静寂に落ちた。
「炉との繋がりの変質が、加速しているわ。最初は数日に一度だった揺らぎが、今は一日に数回。このペースが続けば——」
リーリエはペンを止めた。数字を見つめる。
「推定で、数週間。それが私の身体が炉の負荷を支えきれなくなるまでの猶予」
リーリエはペンを置いた。自分の声が書庫の冷たい空気に吸い込まれていくのを聞きながら、紙の上の数字を見つめた。冷静に、客観的に。自分の命の期限を計算する。それは奇妙な感覚だった。
かつてのリーリエなら、この数字に何も感じなかっただろう。「数週間で終わる」と聞いても、「そうですか」と答えるだけ。死は解放だったから。
今は違う。数週間という数字が、胸に重く沈む。まだやりたいことがある。まだ一緒にいたい人がいる。まだ——生きていたい。
だから、この数字が怖い。
カインは向かいの椅子に座っていた。リーリエの分析を聞きながら、一言も発しなかった。
数週間。
第三の道の実行に必要な準備は、まだ完全ではない。条件一の炉の再設計は理論的に整ったが、実行手順の策定はこれから。条件二の聖女の媒介の具体的方法も、詰めきれていない。条件三の万人の祈りに至っては、目処すら立っていない。
数週間で——これらすべてを揃えなければならない。
「……間に合うのか」
カインの声は低く、抑えられていた。しかし深紅の瞳には、焦りの炎が灯っている。
「急ぎましょう。焦りは禁物だけれど——」
「焦るなと言う方が無理だ」
カインが席を立った。書庫を出て、中庭に向かう。リーリエが後を追った。
中庭の石柱の前で、カインは立ち止まった。
深紅の瞳が暗く燃えている。拳が握り締められ、腕の筋肉が強張っている。
リーリエが見守る中、カインの拳が石柱を打った。
鈍い音。石の欠片が飛ぶ。
「間に合わなかったら——」
もう一撃。石柱にひびが入った。
「また俺は——何もできないまま——」
「カインさん」
リーリエの声が、カインの拳を止めた。
「焦っても仕方ないでしょう。できることを、順番にやるの」
リーリエは穏やかに言った。
カインが振り返る。深紅の瞳に、苛立ちと恐怖が渦巻いている。しかしリーリエの冷静な表情を見て——少しずつ、息が整っていく。
「……すまん」
「謝らないで」
「すまん。つい——」
「カインさん」
リーリエがカインの前に立った。石柱を殴った拳を見る。皮がめくれ、血が滲んでいる。
「見せなさい」
「大したことはない」
「見せなさい」
リーリエの声に、有無を言わさぬ静かな力があった。カインが観念したように、拳を差し出す。
リーリエはカインの手を取り、傷を確認した。深くはないが、このまま放置すれば化膿する。
「こんなことで怪我して。誰が私を守るの」
「……」
「待っていて。包帯を持ってくるわ」
リーリエは城の中に戻り、すぐに包帯と薬草の軟膏を持って戻ってきた。カインは中庭のベンチに座り、憮然とした顔で待っていた。
リーリエがカインの手を取り、軟膏を塗る。丁寧に、しかし手際よく。教会で聖女として育った際に、基本的な手当の方法は教わっていた。
「痛い?」
「痛くない」
「嘘つき。拳が赤く腫れているのに」
「この程度——」
「五百年生きていても、痛いものは痛いでしょう」
リーリエが包帯を巻きながら、微かに笑った。
カインはリーリエの手元を見つめていた。細い指が、包帯を巻く。白い指先が、カインの傷を覆っていく。
「……あなたが怒ってくれるのは、嬉しいことよ」
リーリエが呟いた。
「え?」
「カインさんが、私のことで怒って、焦って、石柱を殴るほど心配してくれる。それは——嬉しいの」
カインが言葉を失った。
「以前の私なら、誰かが自分のために怒ってくれても、何も感じなかったでしょうね。感情が凍っていたから。でも今は——嬉しいと思える。怒りの裏にある優しさが、わかるから」
包帯を巻き終えた。リーリエはカインの手を、両手で軽く包んだ。
「だから、大丈夫よ。時間は限られているけれど——あなたがいるから、私は大丈夫」
カインの深紅の瞳が、リーリエを見つめた。
怒りが消え、焦りが和らぎ——残ったのは、複雑で、深く、どこまでも優しい光だった。
「……数週間で、間に合わせる」
「ええ。間に合わせましょう」
包帯に覆われたカインの拳を見つめながら、リーリエは思った。この人の不器用な怒りが、自分を守ろうとする必死さが——いつも、リーリエの心を温かくする。怒りの裏側にある優しさ。暴力的なほどの愛情。それを受け取れるようになった自分が、少し誇らしかった。
「お前の身体が持つように——いや、持たせる。俺が」
「どうやって?」
「考える。方法を」
カインが立ち上がった。包帯を巻いた拳を見下ろし、リーリエを見た。
「お前が包帯を巻いてくれた手で——世界を変える」
リーリエは一瞬きょとんとした。そして、ふっと笑った。
「……それは、少し格好いいわね」
「茶化すな」
「茶化してないわ。本当に格好いいと思ったの」
カインが耳まで赤くなって目を逸らした。
中庭に風が吹いた。二人の影が、石畳の上に並んでいる。
数週間。
その間に——第三の道を完成させなければならない。
時計の針は、止まってくれない。
しかし二人の歩みも——止まらない。




