蝕まれる身体
カインが最初に気づいたのは、廊下だった。
昼過ぎ。秋の陽光が高い窓から廊下に差し込み、石壁に格子状の影を落としている。空気は冷えていたが、光の帯の中だけが温かかった。
リーリエが書庫から自室に戻る途中、廊下の壁に手をついた。足が止まり、身体が傾く。
「リーリエ!」
カインが駆け寄ったとき、リーリエの膝が折れかけていた。
間一髪で腕を掴み、支える。リーリエの身体が、恐ろしいほど軽かった。以前より、さらに。
「……大丈夫。少しめまいがしただけ」
リーリエの声は穏やかだったが、顔色が青白い。唇から血の気が引いている。額にうっすらと汗が浮かび、銀灰色の髪がこめかみに張りついていた。左胸の紋章が、明滅を繰り返している。不安定に。脈打つように。
カインの手の中で、リーリエの身体が微かに震えていた。華奢な肩。細い腕。聖女の力に命を削られ続けて、もとから細かった身体がさらに軽くなっている。
カインの内臓が、冷たく締め上げられた。
この感覚を知っている。五百年前にも味わった。エルシェの身体が日に日に衰弱していく中で、自分の腕の中のぬくもりが消えていく恐怖。あのときと同じ冷たさが、カインの胸を這い上がってくる。
「大丈夫じゃない。歩けるか」
「歩けるわ。ほら——」
リーリエが壁から手を離そうとして、また足が揺れた。カインが即座に腕を回し、リーリエの身体を支えた。
「……ごめんなさい。少しだけ、支えてもらっていい?」
「馬鹿なことを聞くな」
カインはリーリエを抱えるようにして、自室まで連れ帰った。ベッドに横たえ、額に手を当てる。微かな熱。
「紋章が——また揺らいでいる。前よりも頻繁に」
「ええ。今朝から、少し不安定だったの」
「なぜ言わない」
「言ったら、あなたが心配するでしょう」
「言わないから余計に心配する」
カインの声は低く、鋭かった。しかし怒りではない。恐怖だ。
この光景を、カインは知っている。
五百年前。エルシェの身体が衰弱していく過程。最初は小さなめまい。食欲が減り、歩く速度が落ち、声が小さくなり。次に立てなくなり。やがて——。光に包まれて、消えた。
「またこうなるのか」
呟きが、唇から漏れた。カインは自分の声を聞いて、はっとした。
リーリエがカインの手を取った。
「カインさん。私はここにいるわ」
「……」
「五百年前とは違う。あなたが傍にいる。第三の道がある。時間は足りないかもしれないけれど——方法はあるの」
リーリエの薄い青紫の瞳が、真っ直ぐにカインを見つめていた。ベッドに横たわりながら、弱さを見せながら、それでも強い目。
カインは深く息を吸った。恐怖を飲み込む。
「……明日の作業は俺がやる。お前は休め」
「過保護ね」
「過保護で結構だ」
カインが額の汗を拭った。大きな手が、リーリエの額をそっと撫でる。額から前髪を払い、頬に手を添える。
リーリエは「過保護ね」と言いかけて——カインの手の温もりに、言葉を飲み込んだ。
大きな掌。硬い指。しかしその触れ方は、どこまでも優しい。
「……温かい」
「当たり前だ」
「カインさんの手は、いつも温かいわね」
「……黙って寝ろ」
カインはリーリエに毛布をかけ、枕元の椅子に座った。
リーリエは目を閉じた。身体の倦怠感が重い。紋章が脈打つたびに、微かな痛みが走る。以前より強い。炉との繋がりが変質していく痛み。
しかしカインの気配が傍にあることが、痛みを遠ざけてくれる。
やがてリーリエは眠った。穏やかな寝息が、暗い部屋に微かに響く。肩の力が抜け、毛布の中で身体が小さく丸まっている。
カインはリーリエの寝顔を見つめていた。
長い睫毛が頬に影を落とし、白い肌が月明かりに照らされている。眠っているときだけ、リーリエの表情から緊張が抜ける。起きているときは——いつも、どこか張り詰めている。強がりと冷静さで覆い隠しているが、その下には恐怖がある。カインにはわかる。同じ恐怖を、自分も抱えているから。
銀灰色の髪が枕に広がり、白い肌が月明かりに照らされている。華奢な肩が毛布の中で微かに上下する。穏やかな寝息。
しかし紋章が——明滅している。弱く、不安定に。
リーリエの命が、確実に削られていく。
カインの拳が握り締められた。
五百年前と同じだ。何もできない。ただ傍で見守ることしかできない。
いや——違う。
今は、方法がある。設計図がある。三つの条件が見えている。間に合わせなければならない。
カインは立ち上がり、窓の外を見た。月が昇っている。冷たい光が魔王城の石壁を照らしている。
「間に合わせる」
低い声。誰にも聞こえない独白。
「今度は——間に合わせる」
深夜。
リーリエがふと目を覚ました。
部屋は暗い。月明かりだけが窓から差し込んでいる。
椅子にカインの姿はなかった。書庫に戻ったのだろう。作業を続けるために。
リーリエは自分の手を見つめた。
——震えている。
微かに。しかし確かに。指先が小刻みに揺れている。
紋章の揺らぎが身体に及び始めている。炉との繋がりの変質が、リーリエの身体を蝕んでいる。
「……まだ、大丈夫。まだ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
しかし声も——微かに、震えていた。
リーリエは手を握り締め、震えを止めた。
強がりの裏にある不安。平静を装う表情の下で、恐怖が息をしている。
死にたかった頃の自分なら、怖くなかっただろう。命に執着がなかったから。
今は——怖い。
生きたいと思うから。この人たちと一緒にいたいから。帰る場所があるから。
失いたくないものがあるから——怖い。
それでも。
怖いと思えること自体が、生きている証だ。あの頃の自分は、何も怖くなかった。何も感じなかった。感情を凍らせて、痛みも恐怖も遮断していた。今の自分は、怖いし、痛いし、不安だし——でも、温かいし、嬉しいし、大切な人がいる。
怖くていい。感じていい。
リーリエは毛布を引き寄せ、身を丸めた。
左胸の紋章が、暗闇の中で明滅を繰り返していた。




