それでも
嵐の後に、静けさが来る。
教会の声明から数日。各国の反応は教会寄りに傾き、協力者の沈黙は続き、魔王城は外の世界から切り離されたような静寂の中にあった。情報室に届く報告の数も減った。リュカの魔族ネットワークだけが細い糸のように外の世界と繋がっている。
リーリエはテラスに立っていた。
朝の光が世界を照らしている。遠くの山並み。平原を吹き渡る風。どこまでも広がる空。
この世界を守るために、聖女は命を捧げ続けてきた。五百年間。何代もの聖女が、この空の下で消えていった。
リーリエは拳を握った。
「それでも、やる」
声は静かだった。叫びではなく、宣言。風に乗って消えるような小さな声。しかし、その芯は硬く、折れない。
「当然だ」
背後から声がした。
振り返らなくても、わかる。カインの声。
「教会が何を言おうが、世界がどう動こうが——やることは変わらない」
カインがリーリエの隣に立った。テラスの手すりに手を置き、同じ景色を見つめている。
「言葉少なくとも、揺るがない信頼——って、リュカさんが前に言っていたわね」
「あいつは余計なことばかり言う」
「的を射ているから困るのよ」
リーリエは微笑んだ。カインの口元にも、微かな笑みがあった。
二人は同じ景色を見つめ、同じ風を受け、同じ決意を胸に抱いていた。言葉は少なくていい。伝わるものは伝わる。
テラスを離れ、情報室に向かう。
リュカが何か新しい情報を掴んだらしく、珍しく興奮した顔で二人を待っていた。
「旦那様、お嬢! いい報せっす!」
「珍しいな。最近は悪い報せばかりだったが」
「聖騎士団長から、密書が届いたっす」
リュカが差し出した書簡は、蝋で封緘され、見覚えのない紋章が押されていた。教会の紋章ではない。レオンハルト個人の——騎士の誓いを象る紋章。
レオンハルトがその場で封を開いた。中身を読み、表情が変わった。
「聖騎士団の中にも——良心派が動いている」
レオンハルトの琥珀色の瞳が光った。嘘がつけないこの騎士の目に、隠しきれない感情が浮かんでいた。
「良心派?」
「教会の上層部の指示に疑問を持つ聖騎士たちだ。教会の声明を受けて、逆に疑問を深めた者がいる。『聖女を守ることが騎士の務めなのに、聖女を苦しめる制度を守ることが本当に正しいのか』と」
レオンハルトの声に、隠しきれない感情がこもっていた。かつて自分がたどった道と同じ葛藤を、教会の中の騎士たちが今、経験している。
「密書の主は、聖騎士団の副団長だ。俺の後を継いで実質的に団を率いている。彼は——味方になりうる」
「今は動けないが——時が来れば、と」
リーリエが密書の文面を読んだ。慎重だが、確かな意志が行間に滲んでいる。
レオンハルトの琥珀色の瞳に、複雑な感情が浮かんでいた。かつての部下が、自分と同じ葛藤を経験している。教会への忠誠と、騎士としての正義の間で引き裂かれる苦しみ。レオンハルトはそれを知っている。自分がたどった道だから。
「彼が動けるようになるのは、いつになるかわからない。だが——その日が来たとき、力になる」
レオンハルトの声は静かだったが、確信に満ちていた。
「孤立は完全ではなかったのね」
リーリエの声に、安堵が混じっていた。
「教会の中にも、良心はある。世界は一枚岩ではない」
カインが腕を組んだ。
「だが、今すぐ動ける味方ではない。教会の監視下にいる以上、表立った協力は——」
「ええ。でも、いるということ自体が重要なの。いつか表に出られる日が来たとき、味方がいるかいないかは大きな差になる」
リーリエは密書をテーブルに置き、窓の外を見た。
味方を増やす方法を、考えなければ。
教会の声明は「確実な方を選べ」と世界に訴えた。それに対抗するには、第三の道が「賭け」ではないことを証明するしかない。理論ではなく、行動で。
「……カインさん」
「なんだ」
「教会の中に味方がいる。世界のどこかに、聖女制度に疑問を持つ人がいる。その人たちの声を、いつか束ねなければならない」
「条件三——万人の祈りに繋がるか」
「ええ。まだ遠いけれど——道筋が見えてきたわ」
夜。
リーリエは自室で一人、窓の外を見つめていた。
教会の声明。孤立。しかし良心派の存在。世界は一枚岩ではない。
味方を増やすには——真実を知ってもらうしかない。聖女制度の真実を。一人の少女が命を削られ続けている事実を。教会が五百年間、それを隠し続けてきた事実を。
その真実を公開することは、教会との決定的な対立を意味する。世界に混乱をもたらす。
しかし——それ以外に、道はあるだろうか。
考えが堂々巡りする。
ノックの音。
いや、ノックなしに扉が開いた。
「寝ろ」
カインだった。廊下からリーリエの部屋を覗いている。
「……ノックくらいしてくれないかしら」
「灯りがついていたからな。夜更かしするなと言った」
「考え事をしていたの」
「考え事は明日やれ」
カインが部屋に入り、椅子に座った。明らかに帰る気がない。
「……何をしているの」
「お前が寝るまで帰らん」
「子供じゃないのよ」
「子供より始末が悪い。お前は放っておくと朝まで考え込む」
リーリエは溜息をついた。しかし口元に笑みが浮かんでいる。
「……わかったわ。寝るから」
ベッドに横になる。カインが椅子に座ったまま、腕を組んで目を閉じた。眠るつもりはないのだろう。見張りだ。
「おやすみなさい、カインさん」
「ああ」
「カインさんが先に寝たら、起こしてあげるわね」
「寝ない」
「どうかしら」
リーリエは微笑んで目を閉じた。
暗闇の中で、カインの呼吸が聞こえる。規則的で、穏やかな呼吸。
味方は教会の中にもいる。孤立は完全ではない。
しかしリーリエの身体は——限界に近づいている。
左胸の紋章が、暗闇の中で微かに揺らいでいた。白銀の光が天井に不規則な模様を描いている。椅子のカインがその光を見つめているのが、薄く開いたまぶたの隙間から見えた。
眠りに落ちる直前、リーリエは思った。
この人がいるから、怖くない。
この人がいるから——前に進める。




