圧力
孤立は、じわじわと進んでいた。
それは目に見える包囲ではなかった。軍隊が城を取り囲むわけでも、門に矢が放たれるわけでもない。ただ、世界が少しずつ背を向けていく。昨日まで味方だった者たちの沈黙が、壁のように積み上がっていく。
魔王城の情報室に、悪い報せが集まっている。
「西の学術都市ブレンハイムの学者、ハルトマン教授。教会から異端の嫌疑をかけられ、研究資料を没収されたそうっす」
リュカが報告を読み上げる。
「南方の聖職者ヨハン神父。教会の教義に疑問を呈したとして、地方教区に左遷。連絡が途絶えたっす」
一枚、また一枚。悪い報せが積み重なっていく。
「東方の旧修道院の古文書庫。教会が『保全のため』と称して蔵書を押収。中には聖なる炉に関する古い文献が含まれていた模様」
リーリエは情報室の壁に貼られた地図を見つめていた。各地の協力者を示す印が、一つずつ消えていく。赤い印が灰色に変わっていく。
「……包囲されているわね」
声は冷静だった。しかし胸の奥に、重いものが沈んでいく感覚があった。
教会は、第三の道に協力しうるすべての人間を潰しにかかっている。学者、聖職者、古文書の管理者——直接的な暴力ではなく、異端審問の脅しと権威を使った圧力。教会に逆らうことの恐ろしさを、見せしめにしている。
「カインさん」
「ああ。わかっている」
カインは壁に背を預け、腕を組んでいた。深紅の瞳が地図を見ている。
「教会の情報網は世界規模だ。俺たちの味方を洗い出して、一人ずつ潰す——グレゴリウスらしいやり方だ」
「孤立させて、選択肢を奪う。教会にとっての第三の道は、権威の崩壊を意味するものね。全力で阻止するのは当然か」
リーリエは地図から目を離し、情報室を出た。足は自然と、城の厨房に向かっていた。
厨房では、リュカの部下——城の小魔族たちが忙しく動き回っていた。食事の準備だけではない。何かを仕分けている。
リュカが厨房のテーブルに座り、書簡の束を捌いていた。
「あ、お嬢。ちょうどいいとこに」
「リュカさん、何をしているの?」
「情報の仕分けっす。表の連絡網が潰されてるんで、裏の方を使ってるんすよ」
リュカの手元には、木の葉のような薄い膜に文字が浮かんだ書簡と、通常の紙の書簡が混在している。膜の方が魔族の通信術で、紙の方が人間の連絡網だ。紙の方は——半分以上が「連絡途絶」の印がついていた。
リュカが書簡の一つを持ち上げた。紙ではなく、木の葉のような薄い膜に文字が浮かんでいる。
「魔族のネットワーク。半霊族の通信術を使った連絡網っす。教会の監視は人間の通信手段——伝書鳩、飛脚、魔法通信——を押さえてるっすけど、魔族の通信術は別系統なんで、引っかからないんすよ」
リーリエは目を見開いた。
「教会の監視網をすり抜けられるの?」
「完全にじゃないっすけど、かなり。俺の同胞——半霊族の連中が各地に散ってて、独自のネットワークを持ってるっす。人間社会には溶け込めるから、教会の目も騙せる」
リュカが少し照れたように耳を掻いた。
「あんたらが考え事してる間、俺たちは俺たちのやり方でやるっすよ。城を守るのも、情報を集めるのも——それが俺らの仕事っすから」
リーリエはリュカを見つめた。
いつもは軽口を叩き、お調子者の仮面を被っている従者。しかしその奥に、確かな忠誠と知恵がある。五十年間、カインの孤独な旅に唯一付き添ってきた男。
「……ありがたいわね」
「いやいや、感謝されるほどのことじゃ——」
「本当に、ありがたいの。リュカさん」
リーリエの声に、静かな感情がこもっていた。リュカが一瞬、いつもの軽さを失って、真っ直ぐにリーリエの目を見た。
「……お嬢にそう言ってもらえると、やった甲斐があるってもんっす」
リュカが笑った。照れ隠しの笑顔。しかし琥珀色の瞳には、本物の喜びがあった。
厨房から戻る廊下で、リュカの部下の小魔族が食事を運んでいた。
「リーリエ様、お食事の時間です。リーリエ様の好きな味付けにしました」
盆の上には、温かいスープとパンと果物。リーリエが魔王城で好むようになった料理。
「ありがとう」
リーリエは微笑んだ。
自室に戻ると、カインが先に来ていた。窓辺に立ち、外を見ている。
「食事を持ってきてもらったの」
「ああ。……俺の分は?」
「カインさんの分は——」
従者が追加で盆を持ってきた。しかしカインの食事は、リーリエのものに比べて明らかに質素だった。パンと、冷めたスープ。
「……これだけか」
「リュカさんが『主様は自分でお作りになれるでしょう』と」
リーリエが吹き出した。
「ふふっ——」
笑い声が部屋に響いた。カインが不服そうな顔をしているのがおかしくて、リーリエは口元を手で覆った。
「笑うな」
「ごめんなさい。でも——」
「何がおかしい」
「リュカさんの塩対応が、いつ見ても面白いの」
カインが憮然とした顔でパンを齧った。リーリエは笑いを収めながら、温かいスープに口をつけた。
孤立しているのは事実だ。教会の圧力で、外の協力者は次々と沈黙している。
しかし——ここは、安全だ。
魔王城の厨房で従者たちが食事を作り、リュカが裏の情報網を回し、小魔族たちが日常を守っている。
困難の中にある、温かい場所。
帰る場所。
リーリエはスープを飲み干し、窓の外を見た。夕暮れの空。遠くの山並み。
「ねえ、カインさん」
「なんだ」
「孤立していても——私たちは、一人じゃないわね」
カインがパンを噛む手を止めた。リーリエの言葉を噛み締めるように、しばらく黙って——。
「……ああ。そうだな」
その声は、穏やかだった。
外の世界では、教会の包囲が狭まっている。協力者たちの声は一つずつ消え、教会の権威がますます重くのしかかる。
しかしこの城の中では、温かいスープの湯気が立ち、従者たちが忙しく働き、リュカが裏の情報網を回している。
世界が背を向けても——ここには、日常がある。
そして大司教が次に何を打つか——その答えは、まだ見えていなかった。




