燃やされた遺跡
報せが届いたのは、三日後のことだった。
その日の朝は穏やかだった。テラスから見える空は青く、風は秋の涼しさを含んでいた。リーリエは書庫で設計図の検算を続け、カインが向かいで歴代聖女の記録を整理していた。蝋燭の代わりに窓から差す光で作業をしていた——節約ではなく、朝の光の中で作業するのが好きになったからだ。
その静けさを、リュカの足音が破った。
カインは書庫の椅子に座ったまま、リュカの報告を聞いた。
「遺跡が——燃えた?」
「はい。鬼火族の偵察によると、教会の工作部隊が遺跡一帯に聖火を放ったそうっす。石造りの建物ごと、中の研究痕跡を焼き尽くす徹底ぶりで——」
リュカの声が途切れた。カインの表情を見たからだ。
深紅の瞳が、燃えていた。
怒り。純粋な、灼けつくような怒り。
「あの場所を……」
カインの声は低く、震えていた。拳がテーブルの上で握り締められ、木が軋む音がした。
「あいつが——エルシェが遺した場所を。あいつの研究室を。壁の設計図を。走り書きを。全部——」
言葉が途切れた。カインの身体から、黒紫の魔力が滲み出している。空気が振動し、書庫の蝋燭の炎が一斉に揺れた。
リュカが一歩下がった。カインの怒りがここまで表に出るのは、この従者が五十年仕えてきた中でも数えるほどしかない。
「旦那様——」
「黙れ」
カインが立ち上がった。椅子が後ろに倒れる。拳がテーブルを叩き、木が割れる音がした。
「教会が——あの場所の存在を知っていて、封印して、俺たちが情報を得たら今度は燃やす……? 五百年だ。五百年間、あいつの遺したものを隠し、利用し、都合が悪くなったら燃やす——!」
怒りが書庫の空気を歪ませる。リュカが従者たちを下がらせようとした、そのとき。
「カインさん」
穏やかな声が、嵐の中に差し込んだ。
リーリエが書庫の入口に立っていた。銀灰色の髪が、カインの魔力の余波で微かに揺れている。
薄い青紫の瞳が、真っ直ぐにカインを見つめていた。
「もう手遅れよ」
リーリエは静かに言った。
「教会が遺跡を燃やした。それは事実。でも——」
リーリエが書庫に歩み入り、机の上に置かれた紙束を手に取った。設計図の写し。歴代聖女の研究記録との統合データ。
「知識は、ここにあるわ」
紙束を掲げるリーリエの手は、細く白い。しかし震えてはいなかった。
カインの拳が、微かに緩んだ。
「私たちは必要な情報を、すでに手に入れた。遺跡が燃えても、壁の設計図が灰になっても——写しはここにある。歴代聖女の記録も、炉の構造図も。教会が焼けるのは石と壁だけ。知識は、燃えないの」
リーリエの声は冷静だった。感情的にならず、事実を述べている。しかしその冷静さの中に、揺るがない強さがあった。
カインの魔力が、ゆっくりと収まっていく。黒紫の光が薄れ、書庫の空気が元に戻る。蝋燭の炎が安定を取り戻す。
「……だが、他の遺跡も狙われる」
カインの声は、まだ低く震えていた。しかし怒りの暴走は収まりつつある。
「ええ。他の遺跡、研究資料、協力者——教会は手段を選ばないでしょうね」
「わかっている。だから——」
カインが言葉を探しているとき、リーリエがそっと近づいた。
怒りで握り締められたカインの拳を、両手で包んだ。
細い指が、大きな拳を柔らかく覆う。
「大丈夫。必要なものは、もう手に入れたわ」
カインの拳が、ゆっくりと開いていった。
強張った指が一本ずつ伸びていく。リーリエの手の温もりが、怒りに灼けた掌に沁みていく。
「……すまん」
「謝らないで。怒るのは当然よ。あなたにとってあの場所は——」
「ああ。あいつが、最後に息づいていた場所だった」
カインの声が掠れた。
しかし——もう、崩れはしなかった。過去と向き合い、悼みながら前に進むことを選んだカインは、怒りに沈まなかった。
カインの肩から力が抜けた。怒りが完全に消えたわけではない。けれど暴走はしない。リーリエの声が、五百年分の怒りに蓋をする。蓋の下でまだ燃えているけれど——制御できる火になる。
「……他の遺跡や資料も狙われるかもしれんな」
「ええ。だから急ぎましょう。設計図の統合はほぼ完了しているけれど、まだ詰め切れていない部分がある。教会が次に何を狙うかわからない以上、手元にある情報だけで完成させなければ」
「必要な資料は——」
「ほとんど手に入れているわ。足りない部分は、私の聖女としての感覚で補える。炉との繋がりを通じて、構造の細部を直接感じ取ることができるから」
それはリーリエの身体をさらに消耗させる方法でもあった。しかしリーリエは、そのことを口にしなかった。
「ああ」
カインがリーリエの手を握り返した。強く、しかし壊さないように。
リュカが隅で見守っていた。五十年仕えてきた主人が、こうして誰かに怒りを鎮められるのを見るのは初めてだった。琥珀色の瞳が潤んでいるが、本人は「目にゴミが入っただけ」と言うだろう。
「……旦那様。お嬢」
リュカが口を開いた。いつもの軽い口調に、ほんの少しだけ真剣さが混じっている。
「遺跡は燃えたかもしれないっすけど、俺たちの情報網は健在っす。教会の次の手を先回りできるよう、偵察を強化するっすよ」
「頼む」
「任されたっす」
リュカが敬礼のような仕草をして、情報室に駆けていく。
書庫に残されたカインとリーリエ。
「カインさん」
「なんだ」
「教会が焦っているということは——私たちが正しい方向に進んでいるということよ」
カインが少し驚いた顔をした。そして、微かに笑った。無表情に見えるカインの、ごく稀な笑み。
「……お前は、強いな」
「あなたがいるからよ」
カインがまた目を逸らした。
教会の妨害は、始まったばかりだった。遺跡の破壊は序章に過ぎない。
しかし二人の手元には、五百年分の知恵がある。エルシェが刻み、歴代聖女が繋ぎ、カインが集め、リーリエが束ねた知恵の結晶。
石壁は焼けても、紙は破けても——理解した知識は、消えない。
それだけは——誰にも奪えない。




