教会の影
報せは、翌朝もたらされた。
朝食の席で、リーリエはいつもより食欲がないことに自分で気づいていた。紋章の揺らぎが続いている。身体の奥に薄い疲労感が澱のように溜まっている。しかしそれを表に出すつもりはなかった。カインの深紅の瞳が、すでに観察するような視線を向けてきている。
魔王城の情報室——城の北棟にある小部屋で、リュカが従者の一人から書簡を受け取った。
「旦那様。お嬢。ちょっとまずいっす」
リュカの声から、いつもの軽さが消えていた。琥珀色の瞳が真剣な光を帯びている。耳がぴんと立っている——感情が動いているときの癖。
「何があった」
カインが問う。
「偵察に出してた鬼火族のやつから報告が入ったんすけど——教会の密偵が、遺跡の周辺で目撃されていたそうっす。俺らが遺跡に行った頃には、もう張ってたみたいで」
リーリエの指が、テーブルの上で止まった。
「つまり——私たちの動きが、教会に筒抜けだった可能性がある」
「その可能性は高い、と。密偵は教会の特務聖職者で、結界の残滓を追跡する術に長けてるらしいっす。旦那様が封印を解いた痕跡を辿ったんじゃないかと」
カインの瞳が鋭くなった。深紅の中に、冷たい怒りが灯る。
「封印を解いた瞬間の魔力の残滓……確かに、完全には消せなかった」
「教会の情報網を甘く見ていたわね」
リーリエは冷静に状況を分析した。
「遺跡に向かった痕跡。封印を解いた事実。中の設計図を調査したこと——教会が本気で分析すれば、私たちの目的は推察できる」
「第三の道だ、と」
「ええ。教会は——初代聖女の設計図と第三の道の存在を、以前から知っていた可能性が高い。だからこそ遺跡を封印した。私たちがそこに到達したことで、教会は動かざるを得なくなる」
リーリエの推測を裏付けるように、リュカが次の情報を告げた。
「もう一個、報告があるっす。教会の本拠——大聖堂で、密使が各地に飛んだらしいっす。内容は不明すけど、動きが慌ただしい」
大聖堂。大司教グレゴリウス・ヴァン・オルデンが座す、教会の中枢。
その大聖堂で——。
場面が変わった。
白い石の回廊。高い天井から降り注ぐ光が、磨き上げられた床を照らしている。教会大聖堂の奥深く、大司教の私室。
グレゴリウスは椅子に座り、報告書に目を通していた。灰色の瞳が、書面の上を滑るように動く。細く長い指が、紙の端を摘んでいる。
「聖女と魔王が、初代の遺跡を訪れた。封印は解除済み。遺跡内部に長時間滞在し、設計図の断片を入手した模様——」
グレゴリウスは報告書を置き、窓の外を見た。大聖堂の塔の上から見下ろす、教会の管轄都市。整然と並ぶ石造りの建物と、行き交う信徒たち。
「なるほど。第三の道か」
声は穏やかだった。怒りでも焦りでもない。冷静な分析者の声。
「初代聖女の設計図——やはり、残っていましたか。教会が封印したはずのものが、魔王の手で」
グレゴリウスは立ち上がり、部屋の奥にある書架に歩み寄った。古い文書の束を取り出す。教会の最高機密——聖なる炉に関する古文書。
グレゴリウスもまた、「別の方法」の存在を知っていた。
しかし——それを認めるわけにはいかない。
「不確実な賭けに、世界の命運を委ねるわけにはいきません」
独白が、私室の静寂に溶けた。
グレゴリウスは古文書を開いた。黄ばんだ羊皮紙に、初代聖女エルシェの筆跡の断片が残っている。「万の灯火で——」途中で途切れた文。教会は五百年間、この文書を封印してきた。
別の方法がある。グレゴリウスはそれを知っている。しかし——成功の保証がない。失敗すれば結界は崩壊し、災厄が世界を呑み込む。一人の聖女の犠牲と引き換えに万人を確実に守るか、成功するかわからない賭けに万人の命を晒すか。
答えは明白だった。少なくとも、グレゴリウスにとっては。
「不確実な希望より、確実な犠牲を。それが——私の三十年間の答えです」
独白の声は穏やかだった。しかしその穏やかさの下に、凍りついた何かが眠っている。
「妨害の準備を」
グレゴリウスが鈴を鳴らすと、密偵の長が現れた。
「遺跡関連の資料をすべて回収、あるいは破壊。初代聖女に関わるすべての痕跡を消してください。そして——協力者の洗い出しを。魔王と聖女に力を貸しうる者たちを、特定しなさい」
「承知いたしました」
密偵が退出する。
グレゴリウスは窓辺に戻り、教会の管轄都市を見下ろした。灰色の瞳に、感情は読み取れない。
「聖女は世界の礎です。その礎を、不確実な方法で動かすことは——許されない」
低く、しかし確かな声。信念の声。
密偵の長が退出した後、グレゴリウスはもう一度窓の外を見た。
夕暮れの光が大聖堂の尖塔を照らしている。信徒たちが帰路につく姿が見える。家族の元へ、日常の温もりへ。
あの日常を守るために——犠牲が必要なのだ。
グレゴリウスは窓に背を向けた。灰色の瞳に、迷いはなかった。
若い頃は迷った。初めて聖女の衰弱する姿を目にしたとき、胸が痛んだ。十七の少女が、日に日に白くなり、声を失い、最後には炉の光に溶けるように消えていった。しかし彼女が消えた翌朝、結界は安定し、世界は平穏を取り戻した。その事実が、グレゴリウスの感情を殺した。
感情では世界は守れない。
それが三十年の答えだった。
場面が戻った。
魔王城の中庭。カインとリーリエが並んで歩いている。
「教会が動くなら、時間がもっと限られるわ」
リーリエの声は冷静だったが、その奥に緊張が滲んでいる。
「あいつらの妨害がどこまで来るかだ」
カインが腕を組んだ。深紅の瞳が中庭の空を見上げている。
「遺跡は調査済みだ。設計図は手に入った。だが——他の資料、他の遺跡が狙われる可能性がある」
「焦りは禁物よ。でも——急がなければならないのも事実」
リーリエはカインの目を見た。
「できることを、一つずつ。教会が何をしてきても、私たちの手元にある知識は消せない」
カインが頷いた。
「ああ。俺の傍から離れるな」
「それはいつものことでしょう」
リーリエが微笑む。緊迫した状況でも変わらない、二人のやりとり。
しかしリーリエの左胸で、紋章が微かに揺らいでいた。
教会と、紋章の異変と、残された時間。三つの脅威が、同時に迫りつつあった。
しかしリーリエの足元は揺らがなかった。隣にカインがいて、城にはリュカが待っている。設計図は手元にある。知識は奪えない。
嵐の前の静けさの中で——リーリエは、静かに拳を握った。




