揺らぐ紋章
それは、夜中に起きた。
リーリエは自室のベッドで目を覚ました。身体が熱い。いや——熱いのではない。左胸が、脈打つように明滅している。
聖女の紋章。
白銀の光が、不安定に揺らいでいた。
通常、紋章の光は一定のリズムで脈打つ。炉に命を送り続ける、静かで規則的な拍動。それは二年間ずっと変わらなかった。眠っている間も、目覚めている間も、同じリズム。呼吸と同じくらい当たり前になっていた鼓動。しかし今——光が乱れている。強くなったり弱くなったり、ちらちらと明滅を繰り返している。
「……何」
リーリエは胸に手を当てた。紋章の下の皮膚が微かに熱を帯びている。痛みはない。しかし、今まで感じたことのない違和感があった。身体の奥深くで、何かが軋むような——あるいは、何かが組み替わろうとしているような。
炉との繋がりが——変わっている。
今までずっと一定だった力の流れが、不規則になっている。まるで川の流れが乱されたように、生命力の供給路が揺れている。
リーリエは冷静に自分の状態を観察した。脈拍は正常。呼吸も問題ない。身体の痛みは——いつもの鈍痛はあるが、悪化はしていない。
紋章だけが、揺らいでいる。
寝室の天井に、白銀の光が明滅のリズムを映していた。揺れる光が壁に影を落とし、部屋全体が脈動しているように見える。
扉が乱暴に開いた。
「リーリエ!」
カインだった。
黒髪が乱れ、外套も羽織っていない。薄い室内着のまま、廊下を走ってきたのだろう。息が上がっている。深紅の瞳が切迫した光を帯びている。
「紋章が——今、異常な波動を感じた。お前の紋章が——」
「落ち着いて、カインさん」
リーリエはベッドに座ったまま、穏やかな声で言った。
「揺らいでいるのはわかっているわ。でも、痛みはないの」
カインがリーリエの傍に膝をつき、紋章の光を見つめた。白銀の明滅が、カインの深紅の瞳に映り込んでいる。不規則な光が、二つの瞳の中で揺れ続けている。
「診る」
カインが手を伸ばした。掌に微かな魔力を灯し、リーリエの胸元に翳す。紋章の状態を探る診察。掌の魔力が淡い紫に光り、紋章の白銀と重なった。
数秒の沈黙。カインの表情が、次第に険しくなった。
「……これは」
「何がわかった?」
「通常の衰弱じゃない。紋章そのもの——炉との繋がりが、変質している」
「変質?」
「力の流れのパターンが変わっている。今まで一定だった供給路が、分岐し始めている。まるで——」
カインが言葉を切った。その顔に、困惑と不安が入り混じっている。
「まるで何?」
「……わからない。今まで見たことがない現象だ」
カインの手が、微かに震えていた。リーリエの状態を正確に把握できないことへの焦り。「わからない」と言わざるを得ないことへの苛立ち。五百年の知識をもってしても、今起きていることを説明できない。その無力感が、カインの顎を強張らせていた。
リーリエは自分の胸に手を当て、紋章の光に意識を集中した。
炉との繋がりを「感じる」ことは、聖女にしかできない。
目を閉じる。意識を内側に向ける。紋章を通じて、炉への力の流れを辿る——。
暗闇の中に、光の線が見えた。いつもは一本の太い光の流れ。しかし今は、その光が何本かに分かれて揺れている。まるで根が土の中で枝分かれしていくように。
「……不思議ね」
「何がだ」
「痛みがない。むしろ——違和感が薄れている気がするの」
リーリエは目を開けた。
「今まで、炉との繋がりは『一本の太い鎖』のようだった。常に引っ張られている感覚。でも今は……鎖が緩んでいるような。力の流れが、少し分散している」
「分散——」
カインの瞳が見開かれた。
「分散型の……炉の構造変化と、同じ方向性か」
「かもしれない。でもまだわからない。推測の域を出ないわ」
リーリエは慎重だった。紋章の揺らぎが何を意味するのか、希望的な解釈をするのは危険だ。
窓の外は闇だった。月が雲に隠れ、星も見えない。世界が息を潜めているような夜。紋章の白銀だけが、この部屋の唯一の光源だった。
カインがリーリエの隣に座った。ベッドの端に腰を下ろし、リーリエの肩に手を置く。
「もう一度診る」
「さっき診たばかりでしょう」
「もう一度だ」
カインの手が再び魔力を帯び、紋章の状態を探った。今度はより丁寧に、より細かく。
リーリエはカインの横顔を見つめた。真剣な表情。深紅の瞳が微かに金色を帯びている——魔力を集中しているときの兆候。前髪が片目にかかり、眉間に深い皺が刻まれている。
この人は、いつもこうだ。リーリエに何かがあると、全力で駆けつける。自分のことは後回しにして、リーリエの安全を確認するまで一歩も引かない。
「カインさん」
「……なんだ」
「心配しすぎよ」
「心配していない。確認しているだけだ」
「嘘つき」
カインが手を止め、リーリエを見た。
「……お前がこうやって平気な顔をしているから、余計に心配する。痛いなら痛いと言え」
「痛くないわ。本当に」
「なら——なぜ手が冷たい」
カインの手がリーリエの手を取った。確かに、指先が冷えている。
「……夜中に起きたから。それだけよ」
カインは何も言わず、リーリエの手を自分の両手で包んだ。大きな手の温もりが、冷えた指先にゆっくりと伝わっていく。ごつごつとした掌の感触。剣を握り続けた手。五百年分の戦いを刻んだ手。その手が、今はリーリエの冷えた指を温めるために使われている。
「今夜は、俺がここにいる」
「……大げさよ」
「いいから寝ろ。俺が見張る」
「カインさんこそ寝なさいよ」
「お前が寝るまで寝ない」
リーリエは溜息をついた。この人の頑固さには、どう言っても勝てない。
「……わかったわ。寝るから、椅子くらい使いなさい」
リーリエが横になると、カインはベッドの傍の椅子に座った。深紅の瞳がリーリエの紋章の明滅を注視している。
揺らぐ光。不安定な脈動。
しかしリーリエの顔は穏やかだった。
「おやすみなさい、カインさん」
「……ああ」
リーリエは目を閉じた。紋章の揺らぎは続いている。白銀の光が天井に不規則な模様を描き、カインの横顔を照らしたり陰らせたりしている。しかし不思議と、恐怖はなかった。
カインが傍にいる。それだけで、夜の不安は遠ざかる。
紋章の光が明滅する。弱く、不安定に。
しかしその揺らぎの中に——何か別のものが、芽吹き始めているような気もした。
危機なのか。それとも、希望なのか。
答えは、まだ見えない。




