聖女の足跡
馬車が石畳の道を離れ、土の道に入った。
車輪が小石を踏むたびに、車体が小さく揺れる。窓から差し込む午後の陽光が、リーリエの銀灰色の髪に淡い光を落としていた。
出発してから半日が過ぎていた。魔王城は遠くなり、景色は荒涼とした岩場から、なだらかな丘陵地帯に変わりつつある。道沿いの草が風に揺れ、遠くの山並みが紫に霞んでいる。空は高く、薄い雲が筆で掃いたように東へ流れていた。
馬車の中は静かだった。車軸の軋む音と、馬の蹄が土を叩くリズムだけが続いている。革張りの座席から微かに馬脂の匂いが立ち、揺れるたびに古い木の軋みが骨に響く。
リーリエは向かいの席に座るカインを見た。黒い外套を纏った長身の男は、窓の外を無言で眺めている。深紅の瞳に映る景色を、五百年分の記憶と重ねているのだろう。
「カインさん」
「……なんだ」
「この道を、以前も通ったことがあるんですか」
カインの視線が窓から外れ、リーリエに向いた。一瞬の沈黙。それから、低い声で答えた。
「……ああ。五百年前に一度だけ。あいつと一緒に」
あいつ——エルシェ。初代聖女。
リーリエは静かに頷いた。カインがエルシェの話をするとき、声音がわずかに変わる。硬さが増すのではない。むしろ、どこか柔らかくなる。五百年前に凍らせた記憶が、ほんの少しだけ溶けるように。
「あいつも……よく空を見ていた」
カインが呟いた。窓の外に視線を戻し、遠くの空を仰ぐ。
「馬車に乗ると、いつも窓際に座って、空を見上げていた。教会に閉じ込められていた時間が長かったから、空が珍しかったんだろう」
「……そうだったんですね」
「研究の話になると、急に早口になる癖があった。炉の構造の話を始めると、止まらなくなって、俺が何を言っても聞いちゃいなかった」
カインの口元に、微かな笑みが浮かんだ。本人は気づいていないだろう。五百年間、おそらく一度も浮かべなかった種類の笑み。
リーリエは胸の奥が微かに痛むのを感じた。嫉妬ではない。もっと深い場所にある、静かな共感だった。指先が無意識に膝の上で組まれ、爪が掌に触れるほど力がこもっていた。
エルシェもまた、聖女だった。命を燃料にされ、世界を背負わされた少女。教会に閉じ込められ、空を見上げることすら贅沢だった日々。
リーリエには、その感覚がわかる。教会の祭壇で、白い天井だけを見つめていた二年間。空の色を忘れかけた日々。
「カインさん」
「なんだ」
「エルシェさんと私は、似ていますか」
カインが息を吸った。深紅の瞳がリーリエを捉える。長い沈黙の後、カインはゆっくりと首を振った。
「似ていない」
「そう、ですか」
「あいつは——前を向いていた。どれだけ苦しくても、次にやるべきことを考えていた。お前は……」
カインが言葉を切った。リーリエを見つめる目が、複雑な色を帯びている。
「お前は、一度止まった。止まって、崖から落ちようとした。……でも今は、また歩いている」
リーリエは瞬きをした。
「止まったことも、また歩き出したことも——あいつにはなかった経験だ。お前はお前で、あいつとは違う道を歩いている」
不器用な言葉だった。しかしその不器用さの中に、カインの誠実さがあった。リーリエを初代聖女の代わりとしてではなく、リーリエ自身として見ていること。自覚した変化が、言葉の端々に滲んでいる。
リーリエは小さく微笑んだ。窓から入る光が睫毛の影を頬に落としている。
「ありがとうございます」
「……何がだ」
「ちゃんと、私を見てくれていることが」
カインが目を逸らした。耳の先が赤い。窓の外の丘陵地帯を睨むように見つめているが、その横顔に浮かぶ表情は穏やかだった。
窓の外で、鷹が一羽、気流に乗って旋回していた。翼を広げたまま、風の力だけで空を渡っていく。自由に見えるが、風を読めなければ落ちる。空を飛ぶことにも、技術と覚悟がいるのだ。
馬車が丘を越え、小さな泉のほとりに差しかかった。御者を務めるレオンハルトが馬を止め、「休憩にしよう」と声をかけた。
泉のほとりに腰を下ろす。水面が午後の光を反射して、きらきらと揺れている。水底の砂利が透き通った水の向こうに見え、小さな魚が光の筋を横切っていく。岸辺の草が風に揺れ、水面に波紋を落とした。
リーリエは水辺に座り、足元の草を見つめた。
エルシェと自分の共通点。命を燃料にされたこと。世界を背負わされたこと。それでも誰かを守りたいと思ったこと。
違いは——。
リーリエは隣に座るカインの横顔を見た。黒髪が風に揺れ、深紅の瞳が水面を見つめている。
違いは、私にはこの人がいること。
エルシェは一人で炉に向かった。カインが止めようとしたけれど、間に合わなかった。
私は——一人じゃない。
その事実が、胸の中で温かく灯る。以前のリーリエなら、その温もりから目を逸らしていた。温かさを感じれば、失うことが怖くなるから。でも今は——怖くても、感じていたいと思える。
「何を考えている」
カインの声。リーリエが見つめていることに気づいたのだろう。
「いいえ。何でもないです」
「嘘をつくな」
「嘘じゃないわ。ただ……少し、贅沢だなと思っただけ」
「贅沢?」
「こうして隣に誰かがいることが」
カインが黙った。リーリエの言葉の重みを、五百年の記憶で量っているようだった。泉のせせらぎだけが、二人の間を流れている。
「……ああ」
低い声。それだけだった。しかしその一言に、五百年分の孤独と、今この瞬間の温もりが、静かに重なっていた。
日が傾き始めた。空が茜色に染まり、遠くの山の稜線が黒いシルエットになっていく。風が温度を落とし、草の上を渡る空気に夜の匂いが混じり始めた。
馬車に戻り、再び揺られる。リーリエは窓の外を見つめながら、いつしかまぶたが重くなっていた。旅の疲れと、紋章が命を吸い続ける微かな倦怠感。
ふ、と意識が途切れかけた瞬間、肩に温かいものがかかった。
カインの外套だった。
黒い布地がリーリエの肩を覆い、カインの体温が微かに残っている。革と、かすかに焦げたような魔力の匂い。不思議と安心する匂いだった。リーリエは目を開けかけたが——そのまま、目を閉じた。
「……ありがとう」
小さな声。聞こえたかどうかもわからない。
カインは何も言わなかった。ただ窓の外を見つめていた。しかし外套をかけた手は、しばらくの間、リーリエの肩の近くに留まっていた。
馬車が揺れる。夕暮れの光が窓から差し込み、二人の影を長く伸ばしている。
明日には、初代聖女の遺跡に着く。
五百年前の記憶が眠る場所。エルシェが最後に研究を行い、「別の方法」の手がかりを遺した場所。
カインにとっては、過去と向き合う場所。
リーリエにとっては、未来を切り拓く場所。
同じ場所が、二人にとって異なる意味を持つ。しかしそこに向かう道は、一つだった。




