古き遺跡
遺跡は、山の斜面に食い込むようにして建っていた。
崩れかけた石造りの壁面。蔦が絡みつき、苔が隙間を埋めている。かつては荘厳な建物だったのだろう。石の表面に刻まれた装飾の痕跡が、歳月に削られながらもかろうじて残っていた。鳥の声が遠くで響き、風が石壁の隙間を通り抜けて低い音を立てている。まるで遺跡そのものが呼吸しているようだった。
カインの足が、止まった。
深紅の瞳が、遺跡の外観を見上げている。その瞳に映るものは、今目の前にある廃墟ではない。五百年前のこの場所——石壁が白く輝き、窓から光が溢れ、中から聞こえる羽ペンの走る音。エルシェが研究に没頭していた場所。
「……変わったな」
カインの声は低く、乾いていた。
リーリエは隣でカインの横顔を見つめた。無表情に見えるが、顎の筋肉がわずかに強張っている。拳が無意識に握り締められている。左手の甲——手袋に覆われたその下には、初代聖女との契約の痕跡がある。
五百年。人間にとっては途方もない歳月。石壁は崩れ、蔦に覆われ、かつての面影を失っている。カインの記憶の中にある場所は、もうどこにもない。
それでもカインは、ここに立っている。
リーリエはカインの横を通り過ぎ、遺跡の入口に近づいた。
石の門。アーチ状の入口はまだ原形を留めていたが、その表面に——異質なものがあった。
「これは……」
門の中央に、円形の紋様が刻まれている。教会の紋章だった。しかし通常の教会紋章とは異なり、内側に複雑な幾何学模様が織り込まれている。封印の術式だ。紋様の線が微かに光を帯び、五百年を経てなお魔力が残っていることを示している。
「教会が、この遺跡を封じていたんですね」
リーリエが振り返ると、カインの表情が変わっていた。回想の重みに沈んでいた深紅の瞳が、冷たい怒りを帯びている。
「……知っていたのか。教会はこの場所を知っていた。知っていて——封じた」
「エルシェさんの研究を、隠すために」
「ここまで隠していたのか。あいつの——あいつが遺したものを」
カインの声に、抑えきれない感情が滲む。五百年間、初代聖女の手がかりを求めて世界を放浪してきた。その間ずっと、教会はこの場所を知り、封印し、カインの手の届かない場所に隠していたのだ。
リーリエはカインの横顔を見つめた。怒りの下に、深い悲しみが沈んでいる。怒っているのは教会にだけではない。五百年間、この場所にたどり着けなかった自分自身にも。
カインが封印に手を伸ばした。掌に黒紫の魔力が渦巻く。
「解ける。この程度の封印なら——」
「待って」
リーリエが声をかけた。カインが振り返る。
「罠の可能性は?」
カインが一瞬止まり、封印を観察した。深紅の瞳が術式の紋様を一本ずつなぞるように読み取っていく。数秒の沈黙の後、首を振る。
「罠ではない。純粋な封印だ。侵入者を防ぐだけの術式。……教会にとっては、ここを封じるだけで十分だったんだろう。誰もここを探しに来るとは思っていなかった」
「五百年間、誰も」
「ああ」
カインの手が封印に触れた。黒紫の魔力が教会の紋章に流れ込み、石の表面に亀裂が走る。鈍い音とともに封印が砕け、石の粉が舞い上がった。粉塵が光の中で渦を巻き、ゆっくりと地面に降りていく。
遺跡の入口が、五百年ぶりに開かれた。
中は暗かった。外の光が届くのは入口から数歩まで。その先は、深い闇が続いている。古い空気の匂い——埃と、微かに残る魔力の残滓。冷たくて、乾いていて、しかし腐敗の匂いはない。封印が外気を遮断し、時間を止めていたのだ。
カインが足を踏み出そうとした。
しかし、その足が止まった。
リーリエには見えた。カインの肩が、微かに震えている。
五百年前。この場所で、エルシェは研究をしていた。ここでカインと言葉を交わし、笑い、時に言い争い、そして——時間切れを迎えた。
記憶が、カインの足を縫い止めている。
リーリエは黙ってカインの隣に立った。そして、そっと手を伸ばし、カインの手を取った。
カインが驚いたように視線を落とす。リーリエの細い指が、カインの大きな手を握っている。冷えたリーリエの手と、温かいカインの掌。その温度差が、二人の間に流れる沈黙を柔らかく満たした。
「一緒に入りましょう」
穏やかな声。しかし、その奥に確かな強さがあった。
「リーリエ——」
「大丈夫よ。私がいるわ」
これまでの旅を通じて、二人の間には言葉にしなくても通じるものが生まれていた。カインが過去に囚われそうになるとき、リーリエが現在に引き戻す。リーリエが自分を見失いそうになるとき、カインが傍にいる。
守られる側だったリーリエが、守る側に回る。
カインの拳がゆっくりと開き、リーリエの手を握り返した。
「……ああ」
二人は並んで、遺跡の中に足を踏み入れた。
暗闇の中を進む。カインの掌に灯った魔力の光が、石壁を照らす。壁面には古い文字が刻まれ、ところどころに魔法陣の痕跡が残っている。
空気が変わった。
外の風が届かない深部。石壁の温度が下がり、吐く息が白く曇る。しかし繋いだ手の温もりだけが、確かに伝わってくる。
「ここは……」
通路が広がり、大きな空間に出た。
天井が高い。石壁に囲まれた円形の部屋。中央には崩れた机と、散乱した紙片。壁面には——図形が刻まれていた。円と線と記号の連なり。設計図の断片。
エルシェの研究室だった。
カインの手が、強く握り締められた。
「……ここだ」
声が掠れていた。
「ここで、あいつは研究していた。夜通し。俺が寝ろと言っても聞かないで——」
言葉が途切れた。カインの深紅の瞳が、部屋の隅々を見渡す。五百年前の記憶と、今の廃墟が重なる。
リーリエはカインの手を離さなかった。
「見つけましょう。エルシェさんが遺してくれたものを」
カインが顔を上げた。リーリエの薄い青紫の瞳が、真っ直ぐにカインを見つめている。
過去に沈みかけた深紅の瞳に、現在の光が戻る。
「……ああ。見つけよう」
二人は手を離し、研究室の探索を始めた。
石壁の設計図。崩れた机の引き出しに残る紙片。五百年の歳月を経てなお、この場所はエルシェの痕跡を留めていた。
教会が封印したおかげで、外気にさらされなかった。皮肉なことに、教会の隠蔽工作が、遺跡の保存に一役買っていたのだ。
リーリエは壁面に近づき、刻まれた図形を指でなぞった。
炉の構造の一部。欠けていた部分の——断片。
心臓が跳ねた。
「カインさん。これを見て」
カインが駆け寄る。壁面の図形を見つめ、息を吸った。
「……これは——」
設計図だ。欠落していた部分の、断片。
遺跡の奥に、まだ何かが眠っている。
リーリエは壁の奥を見つめた。研究室のさらに奥に、もう一つの扉がある。半ば崩れかけているが——まだ、開けられる。




