欠けた頁
書庫の空気は、古い紙と乾いた革の匂いに満ちていた。
窓のない部屋だった。壁際に並ぶ書架が天井まで伸び、蝋燭の灯りが革表紙の背を橙色に染めている。炎が揺れるたびに書架の影が伸び縮みし、無数の本が息をしているように見えた。
リーリエは長机の上に広げた羊皮紙を見つめていた。蝋燭の熱が頬にじんわりと届き、乾いた空気が喉の奥を掠めていく。エルシェのメッセージ——初代聖女が五百年前に遺した手がかりの断片。以前解読に成功した部分と、いまだ欠落したままの部分を、一枚の紙に書き出して整理してある。
解読できた部分は、聖なる炉の概要だった。
一人の聖女の命を燃料とし、世界を覆う結界を維持する装置。その基本原理と、起動の手順。しかし肝心の部分——炉の内部構造の詳細、そして「別の方法」の核心——がごっそり抜け落ちている。
「……ここと、ここ。設計図の中核が欠けている」
リーリエは羊皮紙の余白に細い字で注釈を書き加えた。欠落しているのは、炉の燃料供給に関する構造の詳細だ。一点集中型——すなわち一人の聖女の命を注ぎ込む仕組みがどのように組み上げられているのか。それがわからなければ、構造を変更することもできない。
「この部分がなければ、第三の道は絵空事のままね」
独り言が書庫の天井に吸い込まれていく。蝋燭の炎が一つ、ぱちりと音を立てて揺れた。
時間がない。左胸の紋章が、以前よりわずかに弱い光を放っている。砂時計の砂が落ちるように、リーリエの命は今も炉に吸い取られ続けている。指先に微かな痺れ。紋章が光るたびに、胸の奥を誰かの指で搔かれるような鈍い痛みが走る。もう慣れたはずの痛みだった。慣れてしまったことが、少しだけ悲しい。
焦ってはいけない。けれど、焦りが胸の奥で小さな棘になっているのを、リーリエは自覚していた。指先で羊皮紙の端をなぞると、五百年の歳月が凝縮した粗い手触りが返ってきた。
リーリエは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。煤けた石の天井に、蝋燭の影がゆらゆらと踊っている。
歴代聖女の研究記録。以前入手したそれらの断片は、炉の構造の輪郭を朧げに描き出していた。しかし輪郭だけでは足りない。中身が要る。設計図の中核——燃料供給の詳細な構造が。
エルシェは、その答えを知っていたはずだ。自ら炉を設計した天才。「別の方法」の可能性を見出していた先見者。彼女が最後に研究を行っていた場所——ゆかりの遺跡に、手がかりが残されているかもしれない。
不意に、書庫の扉が開いた。
「リーリエ」
カインの低い声。黒い外套の裾を揺らしながら、長身の男が書庫に入ってきた。その両腕には革の旅行鞄と、畳まれた防寒用の外套が抱えられている。
革鞄から漂う油脂の匂いが、書庫の古い紙の匂いと混じり合った。
「旅支度だ。明日の朝には出発できるように整えた」
「……もうですか?」
「遺跡までは馬車で三日。時間を無駄にはできん」
カインは鞄を机の端に置き、リーリエの顔を覗き込んだ。深紅の瞳が、リーリエの顔色を注意深く観察している。視線が頬から唇へ、唇から目元へと移り、最後に左胸の紋章に一瞬だけ触れて離れた。
「顔色が良くない。今日はもう休め」
「まだ整理が終わっていないの」
「明日、馬車の中でやればいい」
「カインさんは過保護ね」
「過保護じゃない。合理的な判断だ」
リーリエは小さく息を吐いた。この人はいつもこうだ。心配している、とは決して言わない。「合理的」だの「世界のため」だのと理由をつけて、結局はリーリエの身体を気遣っている。
不器用な優しさ。以前はそれが煩わしかった。今は——少し、温かい。
「……わかりました。でも、明日の朝は早く起こしてくださいね」
「ああ」
カインが旅行鞄を持ち上げようとした。リーリエが手を伸ばしかけると、カインが先に鞄をさらった。
「重い。俺が持つ」
「私の荷物でしょう」
「お前が持つと、肩を壊す」
「そこまで非力ではないのですけれど」
リーリエは呆れたように眉を上げた。しかし口元には微かな笑みが浮かんでいる。目が笑っている——とまでは言えないけれど、以前よりも確かに、表情に温度が宿るようになっていた。
廊下に出ると、城の空気が書庫とは違って流れているのがわかった。暖炉の煤と、リュカが焼いているパンの香り。生活の匂い。ここに来た当初は何も感じなかったそれらが、今は確かに「日常」として胸に染みる。
書庫を出て広間に向かうと、従者たちが旅支度の真っ最中だった。
リュカが小魔族たちに指示を飛ばしている。保存食の包み、薬草の軟膏、地図、予備の水筒——広間の大テーブルの上に、出発に必要な品々が並べられていく。暖炉の火が赤々と燃え、広間全体を温かな空気で満たしている。
「あ、お嬢! 旦那様! ちょうどいいところに」
リュカが手を振った。琥珀色の瞳がいたずらっぽく光っている。
「保存食は三日分プラス予備で五日分、用意したっす。遺跡の場所がはっきりしないんで、多めに」
「助かります、リュカさん」
「あとこれ、お嬢用の外套。山道は冷えるんで、裏地に獣毛を縫い込んでおいたっすよ」
リュカが差し出した外套は、黒を基調にした上質なものだった。リーリエの華奢な体格に合わせて仕立て直してある。手に取ると、見た目よりもずっと軽い。裏地の獣毛が掌に柔らかく触れた。
「……わざわざ仕立てたんですか?」
「いやあ、旦那様が『リーリエのぶんを用意しろ』って言うもんで。サイズは俺が見繕ったっす」
リーリエがカインを見る。カインは視線を逸らした。
「……寒い場所に行くんだ。当然の準備だ」
「ふふ。ありがとうございます、カインさん」
カインの耳が微かに赤い。リーリエはそれを見て、もう少しだけ笑った。
広間に集まった従者たちの顔を見渡す。小魔族たちが真剣な顔で荷物を仕分けている。リュカが冗談を飛ばしながらも、手つきは正確だ。五十年間、カインの旅支度を整えてきた手際。
暖炉の薪がぱちりと爆ぜ、橙色の火の粉が一瞬だけ宙に舞った。その光が小魔族たちの横顔を照らし、影が壁の上で踊る。
この場所が、帰る場所だ。
リーリエは羊皮紙の束を胸に抱いた。エルシェの遺したメッセージ。五百年前の聖女が、時間に追われながら書き残した手がかり。
その手がかりの先に——第三の道がある。
行かなければ何も始まらない。
「明日の朝、出発します」
リーリエは広間の全員に向かって、静かに、しかしはっきりと言った。
「初代聖女の遺跡へ。欠けた設計図を、取りに行きましょう」
従者たちが顔を見合わせ、頷いた。リュカが「了解っす!」と声を上げ、小魔族たちが慌ただしく動き始める。
カインがリーリエの隣に立った。深紅の瞳が、穏やかな光を帯びている。
「行くぞ」
「ええ」
左胸の紋章が、静かに脈打つ。微かな光。残された時間を刻む灯火。
けれどリーリエは、怯えなかった。
隣にカインがいる。城には帰りを待つ者たちがいる。
一人ではない。だから——行ける。




