旅立ちの朝
朝が来た。
リーリエは荷物をまとめていた。必要最低限の着替え、壁画の記号を書き写した紙束、研究ノートの写し、そしてエルシェのメッセージの断片。旅に持ち出せる分だけを選び、革の鞄に詰めていく。
部屋の扉が控えめにノックされた。
窓から差し込む朝日が荷物の上に金色の光を落としている。冬の朝日は弱いけれど、今日の光はどこか温かく感じられた。新しい旅の始まりを祝福するかのように。
「お嬢、入っていいすか」
リュカの声だった。扉を開けると、栗色の髪をゆるく結んだ従者が、両腕に荷物を抱えて立っていた。
「これ、保存食。旦那様は『そんなに持てるか』って言うと思うんすけど、足りないよりマシっしょ」
「……ありがとうございます、リュカさん」
「あとこれ、防寒用の外套。山道は冷えるんで。それからこれ、薬草の軟膏。お嬢の紋章が痛むときに使えるやつ」
次々と渡される品々。リュカの手は休みなく動いているが、琥珀色の瞳はいつもの軽薄さを失っていた。
「リュカさん」
「はい」
「リュカさん、荷物が多すぎます。鞄に入りきりませんよ」
「入りますって。詰め方にはコツがあるんすよ。ほら、こうやって——」
リュカが器用に荷物を鞄に詰め直す。五十年間、カインの旅支度を整えてきた手際だった。しかしその手が時折、わずかに止まる。
「リュカさん」
「はい」
「泣いていますか?」
「泣いてないっすよ。目にゴミが入っただけっす」
魔王城の廊下を歩くのはこれで最後かもしれない。石畳の冷たさ。壁の燭台の炎。リュカの薬草茶の匂い。マリカの焼き菓子の甘い香り。全てが愛おしかった。
耳がぴんと立っている。感情が動くと立つ癖。リュカは恥ずかしそうにそれを髪で隠した。
「……お嬢がいなくなったら、この城は静かになるなって思っただけっす」
「帰ってきますよ」
「……そうっすよね」
リュカがふっと笑った。いつもの軽い笑顔ではない。もっと深い場所から出てきた、本物の笑顔だった。
「行ってらっしゃい、お嬢」
魔王城の門前。
朝日が石壁を白く照らしている。門の前にリーリエ、カイン、レオンハルトが並び、その後ろに従者たちが集まっていた。
リュカを筆頭に、城で働く小魔族たちが身を寄せ合っている。普段は陽気な彼らの顔が、今朝は少し曇っている。
リーリエは振り返り、全員の顔を見渡した。
ここが帰る場所だ。
崖から落ちようとしたリーリエを拾ってくれた場所。初めて「ここにいたい」と思った場所。感情が溶け始めた場所。リュカの料理で「おいしい」と目を細めた場所。カインの不器用な優しさに苛立ち、呆れ、そしていつしか安らぎを覚えた場所。
笑い方を思い出した場所。怒り方を取り戻した場所。泣き方を知った場所。
そして——「生きていたい」と初めて思った場所。
この場所を守るために——旅に出る。
「行ってきます」
リーリエは微笑んだ。穏やかな笑顔だった。しかし以前のような「目が笑っていない」笑顔ではない。目尻が少し下がった、温かい笑顔だった。
従者たちの間から、すすり泣きが聞こえた。小魔族の一人が鼻をすすりながら手を振っている。
「必ず帰ってきてください」
リュカの声が少し掠れていた。
カインが門の前に立っていた。黒い外套を風になびかせ深紅の瞳がリーリエを見ている。無愛想な顔。けれどその目の奥に覚悟と温もりが同居していた。
カインが門前で立ち止まり、振り返った。
魔王城の門。黒い石で組まれた重厚な門構え。五百年間、カインがたった一人で守ってきた城。
しかし今は——城の中に、帰りを待つ者たちがいる。
「ああ」
カインの声は低かった。しかしその一言に、五百年分の感慨が詰まっていた。
「帰る場所があるからな」
リュカが涙を袖で拭った。「目にゴミが入った」とは、もう言わなかった。
リーリエとカインが門を出た。レオンハルトが続く。
朝日が三人の影を長く伸ばしている。前へ。前へ。一歩ずつ。
石畳の道を歩く。魔王城の周囲は荒涼とした大地が広がっているが、朝日を受けると不思議と温かく見えた。遠くの山並みが紫に霞み、空に残った星が一つ、消え残っている。
魔王城が遠ざかっていく。振り返れば、まだ門前に従者たちの姿が見える。手を振っている。いつまでも手を振っている。リュカの栗色の髪が朝風に揺れている。
リーリエは前を向いた。隣を歩くカインの横顔に、目を向ける。
「カインさん」
「なんだ」
「——行きましょう。第三の道を、開くために」
カインが頷いた。深紅の瞳が朝日を受けて、微かに金色を帯びている。
「ああ。行こう」
リーリエは振り返った。魔王城の黒い塔が朝日を背に聳えている。ここで過ごした日々がリーリエを変えた。死にたがりの聖女を「変えたい」と願う聖女に。
三人は歩き出した。
メッセージの欠落部分を補完し、炉の再設計を完成させ、世界に真実を公開し、万人の祈りを集める——途方もない旅。
リーリエの左胸で、聖女の紋章が静かに脈打っている。以前より少し弱い光。残された時間を刻む砂時計。
けれどリーリエは微笑んでいた。
隣にカインがいる。後ろにレオンハルトがいる。城にはリュカたちが待っている。一人ではない。
崖の上で死のうとした日、リーリエは一人だった。世界のどこにも味方がいなかった。帰る場所もなかった。
今は——ある。
帰る場所がある。共に歩く人がいる。目指す場所がある。
だから——歩ける。
レオンハルトが隣を歩きながら、地図に目を落としている。最初の目的地までは三日の行程。山道を越え、最寄りの街に立ち寄り、情報を集める。
「まずは教会の地方拠点に寄る。離反した聖騎士の一部がそこに潜伏しているはずだ。連絡が取れれば、移動中の安全が確保できる」
「頼む」
「任せておけ。——それと、聖女殿」
「はい」
「無理だけはなさらないように。身体に異変があれば、すぐに教えてください」
「……はい。わかりました」
リーリエは微笑んだ。心配してくれる人が、二人もいる。贅沢な旅だ。
朝の風が髪を揺らした。銀灰色と黒が並んで、光の中を前に進んでいく。
左胸の紋章が脈打つ。一定のリズム。弱くなっているが——まだ消えていない。まだ時間はある。
リーリエは前を向いた。
第三の道へ。
リュカが門の前に立っていた。栗色の髪が風に揺れている。軽口が飛び出すかと思ったが——珍しく、真剣な顔をしていた。
「お嬢。旦那様を頼みますよ」
短い言葉。けれどその中に——五十年仕えた従者の、全ての思いが込められていた。リーリエは頷いた。「はい」。マリカも門の前にいた。小さな包みを差し出した。焼き菓子。蜂蜜の匂いがした。「道中のおやつです」。目が赤かった。
二度と誰も犠牲にならない世界を——作りに行く。




