表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

240/247

旅立ちの朝

 朝が来た。


 リーリエは荷物をまとめていた。必要最低限の着替え、壁画の記号を書き写した紙束、研究ノートの写し、そしてエルシェのメッセージの断片。旅に持ち出せる分だけを選び、革の鞄に詰めていく。


 部屋の扉が控えめにノックされた。


 窓から差し込む朝日が荷物の上に金色の光を落としている。冬の朝日は弱いけれど、今日の光はどこか温かく感じられた。新しい旅の始まりを祝福するかのように。


「お嬢、入っていいすか」


 リュカの声だった。扉を開けると、栗色の髪をゆるく結んだ従者が、両腕に荷物を抱えて立っていた。


「これ、保存食。旦那様は『そんなに持てるか』って言うと思うんすけど、足りないよりマシっしょ」


「……ありがとうございます、リュカさん」


「あとこれ、防寒用の外套。山道は冷えるんで。それからこれ、薬草の軟膏。お嬢の紋章が痛むときに使えるやつ」


 次々と渡される品々。リュカの手は休みなく動いているが、琥珀色の瞳はいつもの軽薄さを失っていた。


「リュカさん」


「はい」


「リュカさん、荷物が多すぎます。鞄に入りきりませんよ」


「入りますって。詰め方にはコツがあるんすよ。ほら、こうやって——」


 リュカが器用に荷物を鞄に詰め直す。五十年間、カインの旅支度を整えてきた手際だった。しかしその手が時折、わずかに止まる。


「リュカさん」


「はい」


「泣いていますか?」


「泣いてないっすよ。目にゴミが入っただけっす」


 魔王城の廊下を歩くのはこれで最後かもしれない。石畳の冷たさ。壁の燭台の炎。リュカの薬草茶の匂い。マリカの焼き菓子の甘い香り。全てが愛おしかった。


 耳がぴんと立っている。感情が動くと立つ癖。リュカは恥ずかしそうにそれを髪で隠した。


「……お嬢がいなくなったら、この城は静かになるなって思っただけっす」


「帰ってきますよ」


「……そうっすよね」


 リュカがふっと笑った。いつもの軽い笑顔ではない。もっと深い場所から出てきた、本物の笑顔だった。


「行ってらっしゃい、お嬢」


 魔王城の門前。


 朝日が石壁を白く照らしている。門の前にリーリエ、カイン、レオンハルトが並び、その後ろに従者たちが集まっていた。


 リュカを筆頭に、城で働く小魔族たちが身を寄せ合っている。普段は陽気な彼らの顔が、今朝は少し曇っている。


 リーリエは振り返り、全員の顔を見渡した。


 ここが帰る場所だ。


 崖から落ちようとしたリーリエを拾ってくれた場所。初めて「ここにいたい」と思った場所。感情が溶け始めた場所。リュカの料理で「おいしい」と目を細めた場所。カインの不器用な優しさに苛立ち、呆れ、そしていつしか安らぎを覚えた場所。


 笑い方を思い出した場所。怒り方を取り戻した場所。泣き方を知った場所。


 そして——「生きていたい」と初めて思った場所。


 この場所を守るために——旅に出る。


「行ってきます」


 リーリエは微笑んだ。穏やかな笑顔だった。しかし以前のような「目が笑っていない」笑顔ではない。目尻が少し下がった、温かい笑顔だった。


 従者たちの間から、すすり泣きが聞こえた。小魔族の一人が鼻をすすりながら手を振っている。


「必ず帰ってきてください」


 リュカの声が少し掠れていた。


 カインが門の前に立っていた。黒い外套を風になびかせ深紅の瞳がリーリエを見ている。無愛想な顔。けれどその目の奥に覚悟と温もりが同居していた。


 カインが門前で立ち止まり、振り返った。


 魔王城の門。黒い石で組まれた重厚な門構え。五百年間、カインがたった一人で守ってきた城。


 しかし今は——城の中に、帰りを待つ者たちがいる。


「ああ」


 カインの声は低かった。しかしその一言に、五百年分の感慨が詰まっていた。


「帰る場所があるからな」


 リュカが涙を袖で拭った。「目にゴミが入った」とは、もう言わなかった。


 リーリエとカインが門を出た。レオンハルトが続く。


 朝日が三人の影を長く伸ばしている。前へ。前へ。一歩ずつ。


 石畳の道を歩く。魔王城の周囲は荒涼とした大地が広がっているが、朝日を受けると不思議と温かく見えた。遠くの山並みが紫に霞み、空に残った星が一つ、消え残っている。


 魔王城が遠ざかっていく。振り返れば、まだ門前に従者たちの姿が見える。手を振っている。いつまでも手を振っている。リュカの栗色の髪が朝風に揺れている。


 リーリエは前を向いた。隣を歩くカインの横顔に、目を向ける。


「カインさん」


「なんだ」


「——行きましょう。第三の道を、開くために」


 カインが頷いた。深紅の瞳が朝日を受けて、微かに金色を帯びている。


「ああ。行こう」



 リーリエは振り返った。魔王城の黒い塔が朝日を背に聳えている。ここで過ごした日々がリーリエを変えた。死にたがりの聖女を「変えたい」と願う聖女に。

 三人は歩き出した。


 メッセージの欠落部分を補完し、炉の再設計を完成させ、世界に真実を公開し、万人の祈りを集める——途方もない旅。


 リーリエの左胸で、聖女の紋章が静かに脈打っている。以前より少し弱い光。残された時間を刻む砂時計。


 けれどリーリエは微笑んでいた。


 隣にカインがいる。後ろにレオンハルトがいる。城にはリュカたちが待っている。一人ではない。


 崖の上で死のうとした日、リーリエは一人だった。世界のどこにも味方がいなかった。帰る場所もなかった。


 今は——ある。


 帰る場所がある。共に歩く人がいる。目指す場所がある。


 だから——歩ける。


 レオンハルトが隣を歩きながら、地図に目を落としている。最初の目的地までは三日の行程。山道を越え、最寄りの街に立ち寄り、情報を集める。


「まずは教会の地方拠点に寄る。離反した聖騎士の一部がそこに潜伏しているはずだ。連絡が取れれば、移動中の安全が確保できる」


「頼む」


「任せておけ。——それと、聖女殿」


「はい」


「無理だけはなさらないように。身体に異変があれば、すぐに教えてください」


「……はい。わかりました」


 リーリエは微笑んだ。心配してくれる人が、二人もいる。贅沢な旅だ。


 朝の風が髪を揺らした。銀灰色と黒が並んで、光の中を前に進んでいく。


 左胸の紋章が脈打つ。一定のリズム。弱くなっているが——まだ消えていない。まだ時間はある。


 リーリエは前を向いた。


 第三の道へ。



 リュカが門の前に立っていた。栗色の髪が風に揺れている。軽口が飛び出すかと思ったが——珍しく、真剣な顔をしていた。


「お嬢。旦那様を頼みますよ」


 短い言葉。けれどその中に——五十年仕えた従者の、全ての思いが込められていた。リーリエは頷いた。「はい」。マリカも門の前にいた。小さな包みを差し出した。焼き菓子。蜂蜜の匂いがした。「道中のおやつです」。目が赤かった。

 二度と誰も犠牲にならない世界を——作りに行く。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ