覚悟
夜。魔王城の最上階にある書斎で、カインは窓辺に立っていた。
夜空は澄み渡っている。無数の星が散らばり、月が銀色の光を大地に注いでいる。五百年間、この空を見上げてきた。一人きりで。
今は——一人ではない。
「俺が数百年探し続けた答えが、やっと見えた」
星が散っている。月が銀色の光を注いでいる。けれどカインの目には星の光が届かないように見えた。リーリエの紋章が揺らいだ日から、カインの心は沈んでいた。
呟きは独り言ではなかった。背後のソファにリーリエが座っている。毛布を膝にかけ、温かい茶を手に持ち、カインの背中を静かに見守っている。
「エルシェが遺してくれた。研究した聖女が計算してくれた。そしてリーリエが——繋いでくれた」
カインは振り返った。
「だが、ここからが本当の戦いだ」
リーリエが頷く。
カインは机の上に広げた地図を指差した。レオンハルトと共に練り上げた行動計画の概要が記されている。
「まず——メッセージの欠落部分。エルシェが遺した手がかりの全てが、この城にあるとは限らない。あいつは用心深い女だった。重要な情報を一箇所にまとめるような真似はしない」
「分散して隠した、ということですか」
「おそらくな。壁画は教会の地下に。研究ノートはこの城に。ならば欠落部分は——」
「第三の場所に」
「ああ。エルシェが最後に過ごした場所——聖なる炉の近くに、何かがある可能性がある」
リーリエの手が茶碗の上で止まった。
「炉の近く……」
「危険だ。教会の中枢に近い。大司教の目が光っている」
「それでも、行く必要がありますね」
「ああ」
第一の課題。メッセージの補完。
「次に——教会の妨害」
レオンハルトの声が廊下から聞こえた。書斎の扉を開けて入ってくる。
「失礼する。計画の最終調整がある」
「騎士団長」
「大司教は聖女制度の維持に全てを賭けている。第三の道の存在を知れば、全力で潰しにくるだろう。教会の戦力は聖騎士団だけではない。情報網、政治的影響力、五百年の信仰による民衆の支持——」
「それに対抗するために」
カインが続けた。
「大丈夫です」。リーリエが言った。カインは振り向かなかった。けれどその背中が——少しだけ、揺れた。「大丈夫」という言葉が、カインの心を揺らしている。信じたい。けれど信じることが——怖い。
リーリエの足音が聞こえた。軽い足音。けれど以前よりも少しだけ重い。身体の限界が近づいていることを足音が語っていた。
「教会内部の良心派を味方につける必要がある」
レオンハルトが頷いた。
「離反した聖騎士の中には、各地に散らばった者もいる。連絡を取れば、協力してくれる者はいるだろう。教会の内部にも——真実を知れば動く者はいるはずだ」
「希望的観測ではないか?」
「希望的観測だ。だが、俺はこの組織で生きてきた。腐っている部分はある。だが——正義を求める者も、まだいる」
第二の課題。教会との対峙。
「そして——真実の公開と万人の祈り」
リーリエが声を上げた。
「これが最も難しい条件です。五百年の嘘を暴き、人々に真実を伝え、自発的な祈りを集める。——一朝一夕にはできません」
「だからこそ、移動しながら進める」
カインが地図の上に指を走らせた。
「炉に向かう道中で、各地の人々に接触する。聖女制度の真実を、少しずつ広めていく。レオンハルトの元同僚たちの協力を得て、教会の情報網をかいくぐりながら」
三つの課題を同時に進める旅。危険で、困難で、時間に追われる旅。
「計画はこれで固まりか」
レオンハルトが腕を組んだ。
「固まったと言える段階ではないが——大枠は定まった」
二人は並んで夜空を見上げた。星の光が銀灰色の髪と黒い髪を等しく照らしている。言葉は少なかった。けれど沈黙の中に確かな覚悟があった。
「十分だ。細かいことは動きながら決める」
三人は地図を見つめた。魔王城から炉への道のり。いくつもの街を経由する長い旅路。
「……明日、出発する」
カインの声は静かだったが、揺るぎなかった。五百年間、一人で旅をしてきた男の声だった。しかしその声には、以前にはなかったものが混じっている。一人ではないという確信。
「異存はないか」
「ありません」
「ない」
リーリエとレオンハルトが同時に答えた。それぞれの覚悟が、短い返事に凝縮されていた。
計画が固まった。明日、旅に出る。
城に残る者たちにも伝えなければならない。リュカには城の管理を任せる。小魔族たちにも状況を説明する。帰ってくるまで——いや、必ず帰ってくると約束して。
カインはリーリエの方を見た。毛布を膝にかけた少女が、茶碗を両手で包み、カインを見上げている。
「……無理はするなよ」
「それはお互い様です」
リーリエの返事に、カインは小さく鼻を鳴らした。
「お互い様、か」
「はい。お互い様です」
レオンハルトが書斎を出ていった。「明朝、門前で」と言い残して。
二人きりになった書斎で、夜風が窓から吹き込んだ。
明日から旅に出る。この書斎で過ごす最後の夜かもしれない。リーリエは部屋を見渡した。積み上げられた資料。壁画の記号を書き写した紙束。三人分の茶碗がまだ机の上に残っている。ここで何日も過ごした。三人で議論し、計算し、時に言い合い、時に笑った。
帰ってきたら、またここに座るのだ。三人で。
カインが窓を閉めようとして——止まった。
「リーリエ」
「はい」
「……明日から、忙しくなる」
「そうですね」
「だから今夜くらいは——早く寝ろ」
リーリエは茶碗を置いて、小さく笑った。
「カインさんこそ」
二人は立ち上がった。書斎の灯りを消し、廊下に出る。並んで歩く。足音が二つ、石壁に反響する。
リーリエの部屋の前で、立ち止まった。
「おやすみなさい、カインさん」
「ああ。……おやすみ」
扉が閉まる。カインの足音が遠ざかる。
しかし今夜は——足音が戻ってくることはなかった。リーリエの部屋の前で確認する必要がなかったのだ。リーリエが大丈夫だと、カインは知っていたから。
リーリエはベッドに横たわり、天井を見つめた。
明日から旅が始まる。第三の道を実現するための、長い旅。
怖くないと言えば嘘だ。でも——一人ではない。
「怖いですか」。リーリエが問うた。唐突な問いだった。けれどカインには——何を問われているのか、わかった。
「……怖い」。カインが答えた。認めることは——五百年ぶりだった。恐怖を口にすることが。この男はずっと強がってきた。恐れを見せることは弱さだと思ってきた。けれどリーリエの前では——嘘をつきたくなかった。
それだけで十分だった。




