それでも
カインが沈んでいた。
書斎の窓際に立ち、外を見つめている。背中が強張っている。黒い外套が微動だにしない。まるで石像のように——いや、五百年前のあの日に引き戻されたかのように。
紋章の揺らぎが起きた翌日。リーリエの身体は回復し、紋章も安定を取り戻していた。しかしカインの心は安定していなかった。
黒い外套が微動だにしない。石像よりも硬い。感情を押し殺している人間特有の不自然な静止。肩の線が強張り、背中の筋肉が鉄のように固まっている。
リュカがリーリエの部屋を訪ねてきたのは朝のことだった。
「お嬢。旦那様が朝から書斎に籠もってるんすけど……食事も取ってないんすよ。声かけても返事しないし」
「わかりました。行ってきます」
リーリエは廊下からその背中を見て、足を止めた。
わかる。カインの中で何が起きているか。
昨日の紋章の揺らぎが、カインのトラウマを直撃したのだ。初代聖女も「時間がない」と言った。結界が崩壊の危機を迎え、時間がなくなり——エルシェは自分の命を炉に捧げた。
あの日と同じだ。カインはそう思っている。また聖女が死ぬ。また間に合わない。また同じことが——
リーリエは深呼吸をして、書斎に入った。
「カインさん」
カインが振り返らない。
リーリエの身体の異変。紋章の揺らぎ。時間制限。第三の道の厳しい条件。全てが一度に押し寄せてきて、カインの心を五百年前のあの日に引き戻そうとしていた。
「カインさん」
もう一度呼ぶ。今度はカインの前に回り込む。窓辺に立ち、カインの深紅の瞳を下から見上げる。
カインの目は——暗かった。五百年の後悔が蘇り、瞳の奥に澱のように沈んでいる。
「時間がないなら、なおさらです」
リーリエは真っ直ぐにカインを見つめて言った。
「座って嘆いている暇はありません」
カインの目が見開かれた。
「——私は、初代聖女ではありません」
言葉が矢のようにカインの胸を射抜いた。リーリエにはそれがわかった。カインの深紅の瞳が大きく揺れ、唇が僅かに震えたから。
リーリエはこの言葉を言うために覚悟を決めていた。カインのトラウマの核心を突く言葉だとわかっていた。けれど言わなければならなかった。カインが過去に引きずられて沈んでいくのを、黙って見ていることはできなかった。
「エルシェさんのことは聞きました。彼女は時間がなくて、一人で決めて、一人で炉に向かった。カインさんには何も言わずに」
「……ああ」
リーリエが隣に座った。何も言わず。カインの肩に触れないぎりぎりの距離で。ただそこにいた。カインが過去を語った夜、リーリエがそうしたように。今度は——リーリエがカインの隣にいる番だった。
「でも私は違います」
リーリエはカインの手を取った。冷たい手だった。震えてはいない。震えを止めるために、力を込めて拳を握っているのだ。
その拳をリーリエの両手で包んだ。
また同じことが起きようとしている。守りたい人を救えないまま失おうとしている。五百年前の焼き直しが目の前で展開されようとしている。
「あの方は一人で決めた。でも私は一人じゃない」
声が強い。かつて崖の上で「死なせてください」と淡々と言っていたのと同じ声帯から、こんなにも強い声が出る。
「あなたがいて。騎士団長がいて。リュカさんがいて。みんながいる」
カインの拳から、少しずつ力が抜けていく。
「今回は——違います」
カインはリーリエを見つめていた。深紅の瞳の奥で、何かが動いている。五百年分の暗い澱が、リーリエの言葉に揺さぶられている。
「……違う、か」
「はい。違います。私は一人で決めません。私は一人で炉に向かいません。だって——」
リーリエは一度言葉を切った。次の言葉が、自分でも驚くほど自然に出てきた。
「だって私は、あなたの隣にいると決めたんですから」
カインが息を呑んだ。
沈黙が流れた。長い沈黙。しかし苦しい沈黙ではなかった。何かが浄化されていく沈黙だった。
カインの手がリーリエの手を握り返した。
「……ああ。今回は、違うんだな」
声が——柔らかかった。五百年分の硬い殻が、ほんの少しだけ薄くなったような声。
「はい」
けれどカインは拳を握りしめた。今度は違う。今度は間に合わせる。たとえ世界を敵に回しても。あの日の光の壁を打ち砕いてでも。
「お前は——あいつではない」
「はい」
「お前は、リーリエだ」
「はい」
同じ言葉を繰り返す。けれどその「はい」の一つ一つに、少しずつ違う温度が宿っていた。
カインの目に光が戻った。暗い澱が消えたわけではない。しかし——澱の上に、新しい光が差し込んでいた。
「お前は——俺の知る中で、一番頑固な人間だ」
「それはお互い様です」
「……違いない」
カインの口の端が、ほんの僅かに上がった。
五百年前の悲劇は繰り返さない。リーリエが宣言し、カインがそれを信じた。「今回は違う」——その言葉が、呪いを解く鍵になる。
窓の外の夜空がいつもより暗く見えた。星は出ているのに光が届かないように感じる。カインの心の闇が世界を暗く染めている。
リーリエはカインの手を離さなかった。
「さあ、カインさん。時間がないんです。計画を立てましょう」
「ああ」
カインが頷いた。その背中から、石像のような強張りが消えていた。
窓の外で風が吹いた。白い雲が流れていく。
「さあ、カインさん。やることは山ほどあるんです」
リーリエが手を引いて書斎の机に向かう。繋いだ手はまだ離していなかった。カインもそれを指摘しなかった。
「メッセージの欠落部分の手がかりを整理しましょう。教会への対策も考えなければいけません。それから——」
「わかった、わかった。お前が一番焦っているじゃないか」
「焦っていません。計画的に急いでいるだけです」
「……どう違う」
「大いに違います」
カインの口角が僅かに上がった。リーリエのこういうところが——エルシェとは違う。エルシェは理路整然と説明する人だった。リーリエは淡々とした顔で、時折こうして頑固な主張をする。その頑固さが——不思議と、心地よかった。
時間は限られている。けれど二人は立ち止まらない。
リーリエが書斎に入ったのは、夜も更けてからだった。カインの背中が見えた。窓辺に立つ黒い影。振り返らない。けれどリーリエの足音に気づいていることは——わかった。
「カインさん」
呼びかけに、カインは応えなかった。しばらくの沈黙。暖炉の火が揺れる。やがて——低い声が返った。
「……何だ」
その声は——いつもより掠れていた。五百年分の恐怖が、声帯を震わせていた。
今回は——違うのだから。




