時間の砂
それは、何の前触れもなく起きた。
第三の道が見つかり、条件が判明してから二日が経っていた。リーリエは書斎で資料を整理していた。壁画の記号を分類し、未解読の部分をリストアップする作業。メッセージの欠落部分がどこにあるかの手がかりを探している。集中していた。指がページを捲り、目が記号を追い——
左胸が、灼けた。
紋章だった。聖女の紋章が突然、激しく明滅した。白銀の光が服越しに漏れ、脈打つように明るさを変える。安定していたはずの光が——不規則に揺れている。
書斎の椅子に座っていたリーリエの身体が不意に傾いだ。めまい。視界が揺れた。テーブルの端を掴もうとした手が空を切った。
「——っ」
声にならない声が漏れた。リーリエは胸を押さえ、椅子から崩れ落ちそうになった。
痛みだった。覚醒した日に感じた、あの灼熱。全身を内側から焦がす鈍痛が、一瞬だけ蘇った。紋章が揺らぐたびに痛みが走り、視界が白く灼ける。
「リーリエ!」
カインの声が聞こえた。一瞬で距離を詰め、リーリエの身体を支える。強い腕が背中を抱き、倒れかけた身体を受け止める。
「紋章が——」
「わかっている。動くな」
カインの声は鋭かったが、腕は優しかった。リーリエの背中を支えながら、もう一方の手を紋章の上にかざす。魔力が流れ込み、紋章の明滅が緩やかになっていく。
数秒後——紋章は安定を取り戻した。しかし以前の光量より、明らかに弱い。
痛みが引いていく。波のように押し寄せて、引いていく。残されたのは鈍い疲労感と、紋章が以前より弱くなった感覚。砂時計の砂が、また一段と減った。
「……すみません。大丈夫です」
「大丈夫ではない」
カインの声が固い。怒っているのではない。怖いのだ。腕はまだリーリエを離していない。まるで手を離せば消えてしまうとでも思っているかのように、強く、しかし優しく。
「横になれ」
カインが駆け寄った。リーリエの身体を支え椅子に座らせ直す。顔色が白い。唇の色が薄い。額に汗が浮いている。五百年前にエルシェの顔色が変わっていった記憶が——カインの脳裏を焼いた。
「平気です、カインさん。もう痛みは——」
「リーリエ」
名前を呼ばれて、リーリエは黙った。カインの声に込められた感情の密度が、反論を許さなかった。
ソファに横たえられる。カインがリーリエの身体の状態を魔力で診る。指先から流れる魔力が、リーリエの体内を巡っていく。
カインの表情が、一瞬ごとに険しくなっていく。
「炉との繋がりが不安定になっている」
「……はい。少し前から、感じていました」
「感じていたなら、なぜ言わない」
カインの声に怒りが混じった。しかしそれは不器用な心配の裏返しだと、リーリエにはわかっていた。
「言えば、カインさんが心配すると思ったので」
「当たり前だ。心配する。するに決まっている」
カインの手が震えている。リーリエの身体を診る手が、微かに震えている。
「結界の負荷がリーリエの生命力を消耗し続けている。炉から離れている分、結界との接続が不安定になり——紋章に揺らぎが出ている」
一拍の沈黙。
「紋章が完全に消えたとき——お前の命は」
カインの声が途切れた。言えなかったのだ。その先を。
「わかっています」
リーリエは静かに答えた。
紋章が消えれば、結界は崩壊する。リーリエの命も——終わる。世界の結界を支える燃料が尽きるのだから、当然の帰結だ。リーリエの生命力が閾値を下回った時点で結界の維持は不可能になる。
それがいつなのか。明日かもしれないし、一年後かもしれない。カインにもわからないと言った。紋章の揺らぎは不規則で、進行速度も一定ではない。確実なのは——有限だということだけ。
リーリエの左胸で聖女の紋章が一瞬揺らいだ。銀白の紋様が波打つように歪みすぐに戻った。カインはそれを見逃さなかった。拳が白くなるほど握りしめた。
恐怖はあった。けれど以前の恐怖とは質が違う。
かつては死を望んでいた。崖の上に立ったとき、死は解放だった。恐怖はなかった。失うものがなかったから。
今は死が怖い。失いたくないものがあるから。カインの声。リュカの料理。レオンハルトの不器用な敬語。この城の温もり。朝の光。夕暮れの星。全部——失いたくない。
だからこそ——恐怖を飲み込んで、前を向く。
「カインさん」
「ああ」
「大丈夫です。まだ立てます」
リーリエはソファから身を起こした。カインが制止しようとしたが、リーリエの目を見て手を止めた。
リーリエの目には、覚悟があった。
「まだ時間はあります。少ないかもしれないけれど——あります。だから、無駄にはしたくないんです」
カインが唇を噛んだ。
五百年前の記憶が蘇っているのだろう。エルシェも「時間がない」と言った。そして——炉に歩いていった。
しかしリーリエはエルシェではない。
「私は諦めません。第三の道があるとわかったのに——ここで止まるわけにはいきません」
カインの深紅の瞳が揺れた。恐怖と、敬意と、それからもう一つ——名前のつけられない感情。
「……無理はするな」
「します」
時間が限られている。その事実が書斎の空気を重くした。暖炉の火が揺れ壁の影が大きく動いた。まるで世界そのものが揺らいでいるように。
「……リーリエ」
「だって時間がないんですから。無理でも何でもします」
カインが長い息を吐いた。怒りでも諦めでもなく——受け入れの溜息だった。
「わかった。だが——俺の目の届く範囲でだ」
「はい。それは約束します」
リーリエは微笑んだ。カインの手が、リーリエの手をそっと包んでいた。震えは止まっていた。
時間は限られている。
けれどまだ、ゼロではない。
ゼロでない限り——諦める理由はなかった。
窓の外で夕陽が沈んでいく。赤い光が部屋を染める。リーリエの銀灰色の髪が夕陽を受けて淡い赤に染まっている。
カインはその横顔を見つめていた。
かつてエルシェが同じように夕陽に照らされていたことを思い出す。しかしそれは過去の記憶だ。今、カインの目が映しているのは——リーリエだ。リーリエだけだ。
この人を失いたくない。
「リーリエの身体が——限界に近づいている」。カインの声は低く、硬かった。感情を押し殺した声。けれどその裏に——恐怖がある。五百年前と同じ恐怖が。
リーリエは自分の手を見下ろした。指先が微かに震えている。紋章の揺らぎは一瞬だったが——カインの目は誤魔化せない。この人は見ている。リーリエの身体の変化を——一つ残らず。
その想いは、もう贖罪とは呼べなかった。




