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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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希望と困難

 希望は見つかった。しかし希望の裏には、常に困難が張り付いている。


 書斎の机に広げた羊皮紙の上に、三つの条件とそれぞれの課題が書き並べられている。リーリエは一つずつ指で辿りながら、声に出して整理した。


「第一の条件。炉の再設計——初代聖女の完全な設計図が必要です」


「壁画と研究ノートから理論の七割は復元できた」



 三つの条件。それぞれの課題。羊皮紙の上に並んだ文字が希望と困難を同時に突きつけている。リーリエはその文字を一つずつ指でなぞった。

 カインが補足する。


「しかし残りの三割——特に変換の最終手順——が欠けている。エルシェのメッセージの欠落部分に含まれている可能性が高いが、その欠落部分がどこにあるのかがわからない」


「エルシェさんが他にも手がかりを遺していたとすれば——教会の地下、あるいは炉そのものの近くかもしれません」


「教会の地下か」


 レオンハルトの顔が曇った。


「大司教の膝元だ。潜入は容易ではない」


 第一の壁。情報の欠落。


「第二の条件。聖女の媒介——切り替え中、私が炉の橋渡しをする必要があります」


 リーリエは自分の左胸に手を当てた。紋章が静かに脈打っている。


「その間の負荷は——正直、どの程度かわかりません。計算上は制御可能ですが、理論と実際は違います」


「制御可能という計算は、聖女の身体が万全であることを前提にしている」


 カインの声が低くなった。


「お前の身体は——万全ではない」


 沈黙が落ちた。


 リーリエは視線を落とした。カインの言葉は事実だった。結界の維持に命を削られ続けてきた身体。炉から離れている今も、結界の負荷はリーリエの生命力を蝕み続けている。


 第二の壁。リーリエの身体の限界。


「第三の条件。万人の祈り——世界中の人々が自発的に生命力を捧げる必要があります」


「そのためには聖女制度の真実を公開しなければならない」


 レオンハルトが腕を組んだ。


「五百年間、教会が維持してきた嘘を暴く。聖女が何をさせられていたかを、世界中に知らせる。——大司教は全力で阻止に来るだろう」


「仮に真実が公開されたとして」


 カインが冷静に続けた。


「人々が受け入れるとは限らない。五百年の信仰を覆すことになる。聖女を犠牲にしてきたことへの罪悪感。教会への怒り。混乱。——その中で、人々が冷静に『祈り』を捧げてくれるのか」



 夜が更けていった。三人は条件の一つ一つについて議論を重ねた。蝋燭が短くなり、暖炉の薪が灰に変わり、窓の外に星が瞬き始めても——議論は続いた。

「強制では機能しない。自発的でなければならない。つまり——人々を説得し、理解してもらい、自らの意志で行動してもらう必要がある」


 カインが腕を組んだ。眉間に深い皺が刻まれている。条件の厳しさを五百年の経験で誰よりも正確に理解している男の表情だった。


 第三の壁。世界の理解と協力。


 三つの壁が、書斎の空気を重くしていた。


「そして——最大の問題」


 カインが立ち上がった。窓辺に歩み寄り、外を見る。声から感情が消えている——消そうとしている。


「リーリエの身体だ」


 リーリエは目を伏せた。


「炉から離れている期間が長くなるほど、結界の負担がお前の身体を蝕む。紋章の揺らぎが増している。時間は——」


「あとどれくらい、ですか」


 リーリエ自身が問うた。自分の身体のことだ。知る権利がある。


 カインが振り返った。深紅の瞳に、隠しきれない苦しみが浮かんでいる。


「……わからん。だが、無限ではない」


 その言葉の重さが、書斎を満たした。


 無限ではない。つまり——期限がある。リーリエの命に。


 リーリエは息を整えた。恐怖がないと言えば嘘になる。死への恐怖ではない。かつての自分は死を望んでいた。しかし今は——失いたくないものがある。この場所を。この人たちを。


 だからこそ——立ち止まっている場合ではない。


 リーリエは羊皮紙を見つめたまま、静かに考えていた。



 けれどリーリエは怯まなかった。歴代聖女たちの「生きたかった」という声が胸の奥で響いている。その声がリーリエの背中を押していた。

 圧倒されそうになる。三つの壁が同時に立ちはだかっている。どれか一つだけでも途方もない難題なのに、三つ全てを、限られた時間の中でクリアしなければならない。


 かつてのリーリエなら——諦めていただろう。教会にいた頃の、感情を凍結させたリーリエなら。「無理です」と穏やかに微笑んで、それ以上何も考えなかっただろう。


 しかし今のリーリエは違う。


「やるべきことは見えました」


 リーリエの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「メッセージの欠落部分を探すこと。教会の妨害に備えること。真実を公開する方法を考えること。——そして、私の身体が持つうちに、全てを成し遂げること」


 カインの手がリーリエの手を掴んだ。


 強い力だった。崖の上で手を掴んだときと同じ、決して離さないという意志を持った手。


「——だから、急ぐぞ」


 言葉は短い。しかしその裏にある感情を、リーリエは正確に読み取った。


 お前を失いたくない。


 リーリエはカインの手を握り返した。


「はい。急ぎましょう」


 窓の外で日が暮れていく。残された時間が、一秒ずつ減っていく。


 レオンハルトが静かに席を立った。


「二人にしてやる。……計画は明日詰めよう」


 足音が遠ざかり、書斎は静かになった。


 カインの手がリーリエの手を握っている。大きくて温かい手。五百年分の傷を刻んだ手。その手が今、リーリエの手を包んでいる。


「カインさん」


「ああ」


「私、怖いです」


 正直に言った。強がる必要はない。この人の前では。


「時間がないことが怖い。間に合わなかったらどうしようって。でも——」


「でも?」


「怖いのは、生きたいからです」


 カインの指が強くなった。


 かつてのリーリエは怖くなかった。死は解放だった。失うものがなかったから。しかし今は——失いたくないものがある。この手の温もり。この城の日々。リュカの料理。レオンハルトの不器用な敬語。そしてカインの——深紅の瞳。


 怖い。失うのが怖い。


 それは——「生きたい」と同じ意味だった。


「……俺もだ」


 カインの声が小さかった。


「お前を失うのが——怖い」


 その告白は、五百年ぶりの弱音だった。



 レオンハルトが口を開いた。「万人の祈り——それは、世界中の人々がこの計画に協力するということですか」。聖騎士団長の声は冷静だったが、その冷静さの裏に——途方もなさへの驚きが隠れていた。


「ええ。強制では機能しない。人々が自らの意志で祈りを捧げる必要がある。そのためには——真実を知ってもらわなければなりません」

 二人の手は、しっかりと繋がれていた。


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