表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

235/237

第三の道

 最後のピースが嵌まったのは、夕刻だった。


 解読作業は既に一週間を超えていた。毎日朝から夜まで、壁画の記号と計算ノートを突き合わせる日々。リーリエの目の下には薄い隈ができ、カインに何度か「休め」と怒られた。レオンハルトは教会内部の知識を掘り起こすために、古い記憶を繰り返し辿り直していた。


 根気のいる作業だった。しかし一歩ずつ、確実に前進していた。


 リーリエは壁画の記号表を凝視していた。何度も見たはずの記号群の中に、見落としていたものがあった。灯火と灯火を繋ぐ線——その線の交差点に、極めて小さな記号が刻まれていた。肉眼では模様にしか見えない程度の細さだが、拡大して見ると——明確な意味を持つ古代語の記号だった。



 夕日が書斎の窓から差し込みテーブルの上の資料を赤く染めていた。壁画の記号、テレジアの計算、エルシェのメッセージ。三つが一つの絵を描き出していた。

「カインさん。これを見てください」


 カインが身を乗り出す。リーリエが指差した箇所に目を凝らし、深紅の瞳が見開かれた。


「この記号は——変換手順を示す《《接合子》》だ」


「接合子?」


「古代の炉の設計用語だ。構造の切り替えポイントを示す。エルシェの研究ノートにも同じ記号がある」


 カインが棚からノートを引き出し、該当するページを開いた。同じ記号。壁画に隠された接合子と、研究ノートの接合子が一致する。


「これで——計算式の最後の変数が確定する」


 リーリエの手が震えた。興奮ではなく、この瞬間の重みへの畏れだった。


 計算ノートを開き、欠けていた変数を代入する。数式が完成する。壁画の設計図断片と、研究ノートの理論と、エルシェのメッセージが——三つの流れが一本に合流する。


 理論的な全体像が、明らかになった。


 リーリエの手が震えた。計算式の最後の行を見つめる。数字と記号の羅列が——五百年分の願いを凝縮した一つの結論を指し示している。


 炉との繋がりが、リーリエの理解を助けていた。数式が頭だけでなく、身体で理解できる。結界の流れが血液の流れのように感覚的に把握でき、数式の意味するところが直感的にわかる。この感覚は聖女にしか持ち得ないものだ。


「聖なる炉を——一点集中型から分散型に変換する」


 リーリエは声に出して読み上げた。声が少し震えていた。


「燃料供給の構造を書き換え、一人の聖女の生命力ではなく、万人の微量の生命力——祈り——で結界を維持する」


 声が書斎に響いた。


「そうすれば結界は維持される。聖女は不要になる。誰も命を捧げなくていい。誰も犠牲にならなくていい」


 沈黙。


 レオンハルトが息を吐いた。深く、長い息だった。



 レオンハルトが深いため息を吐いた。「希望は見えた。だが——道は険しい」。聖騎士団長の言葉は、誰もが感じていることを代弁していた。


 リーリエは頷いた。「険しくても——歩きます。歴代聖女たちが望んだ道ですから」

「……本当に、あるのか。そんな方法が」


「あります。理論的には——あります」


 リーリエはレオンハルトの琥珀の瞳を見つめた。


「炉を研究した聖女が計算で証明し、初代聖女が設計図を壁画に隠し、カインさんが五百年かけて手がかりを集めた。その全てが——ここに繋がっています」


「これが——第三の道」


 リーリエの指先が震えた。興奮ではない。畏れだった。五百年の時を超えて三人の聖女が遺した知恵が今、一つの答えになった。


 リーリエは呟いた。その言葉が唇から零れた瞬間、胸の奥で聖女の紋章が脈打った。炉が応えたのだ。リーリエの理解に、炉が共鳴している。


「聖女の犠牲でも、世界の放棄でもない。三つ目の選択肢」


 カインが窓際に立っていた。夕陽を背に、黒い外套が逆光に揺れている。


「ああ」


 その声は——震えていた。


「数百年かかったが——見つかった」


 カインの目がリーリエを見ていた。初代聖女の遺言を果たしたことへの安堵。五百年間探し続けた答えがようやく形になったことへの感慨。そして——リーリエと共に見つけたことへの、言葉にならない感情。


 リーリエの目が潤んだ。


「見つかりましたね」


「ああ」


「エルシェさんが信じて、カインさんが追い続けて、聖女たちが繋いでくれた道が——ここに」


 レオンハルトが目を伏せた。琥珀の瞳が光っている。涙ではない——しかし、それに近い何かが。


「難しいことはわからん」


 聖騎士団長はいつもの率直さで言った。


「だが——あの子が死ななくていい方法があるなら、俺はそっちに賭ける」


 三人の間に、静かな確信が満ちた。



 カインの深紅の瞳に夕日の光が映り込んでいた。五百年間探し続けた答えが目の前にある。その実感がカインの表情を柔らかく変えていた。

 第三の道は見つかった。


 しかし「見つかった」と「実現できる」は違う。三つの条件が立ちはだかっている。メッセージの欠落部分の補完。リーリエの身体への負荷。万人の自発的な祈り。


 どれ一つとして容易ではない。


 けれど——道がある。


 暗闇の中を手探りで歩いていた五百年間に比べれば、道があるだけで十分だった。


 カインが窓辺を離れ、リーリエの傍に立った。


 夕陽がリーリエの銀灰色の髪を赤く染めている。カインの深紅の瞳が、その光の中でリーリエだけを見ている。


「ここからだ」


「はい。ここからです」


 リーリエは窓辺に歩み寄った。夕陽が地平線に沈みかけている。赤い光が平野を染め、雲の端を金色に輝かせている。


 五百年前、エルシェはこの理論を完成させる時間がなかった。だから自分の命で炉を動かすしかなかった。その選択は妥協だった——最善ではなく、唯一間に合う方法。


 しかしエルシェは諦めなかった。壁画に設計図を隠し、研究ノートを遺し、カインへのメッセージを残した。「いつか見つけてくれる」と信じて。


 炉を研究した聖女は、その遺志を引き継いだ。エルシェの直感を数学で裏付け、理論の精度を高めた。


 そしてカインが五百年間、全てを繋ぎ止めた。遺品を守り、文献を集め、手がかりを一つずつ追い続けた。


 リーリエは——その全てを受け取る最後の聖女だ。


「歴代の聖女たちが繋いでくれた道ですね」


 リーリエの声に、カインが頷いた。


「ああ。だからこそ——無駄にはしない」


 第三の道は見つかった。



 書斎に沈黙が落ちた。レオンハルトが壁から身を起こした。カインの拳がテーブルの上で握りしめられた。リーリエは二人の反応を見つめた。


「第三の道は——実現可能です。ただし条件がある」


 リーリエの声は落ち着いていた。希望を語るときに浮かれない。困難を語るときに怯えない。歴代聖女たちの声を背負った者の——静かな覚悟。

 しかし——本当の戦いは、ここから始まる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ