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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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欠片を繋ぐ

 書斎の机に、三つの資料が広げられていた。


 壁画の記号を書き写した紙。炉を研究した聖女の計算ノート。そして初代聖女エルシェのメッセージの断片。三つのパズルのピースが、それぞれの言語で同じことを語ろうとしている。


「では、始めましょう」


 リーリエは深呼吸をして、椅子に座った。書斎の空気は埃っぽく、窓から差し込む光が紙の束を白く照らしている。これから始まるのは、五百年分の謎を解く作業だ。緊張で指先が冷たい。



 蝋燭の光が三つの資料を等しく照らしている。壁画の記号。テレジアの計算。エルシェのメッセージ。三つの時代の三つの声が一枚のテーブルの上に集まっている。五百年の時を超えて。

 最初のページを手に取った。向かいにカインが座り、壁画の記号表を睨んでいる。深紅の瞳が紙の上を走り、時折ペンを取って書き込みを加えている。五百年分の知識を総動員する表情だった。


 そして部屋の隅で——聖騎士団長レオンハルトが、落ち着かない様子で腕を組んでいた。甲冑は脱いでいるが、剣は腰に帯びたまま。いつでも戦える態勢を崩さない。騎士の習性だろう。


「なぜ俺がここに呼ばれたか、まだわかっていないんだが」


「教会内部の知識が必要だからです、騎士団長」


 リーリエが穏やかに答えた。


「炉の構造について、教会にしか残っていない記録があります。離反前に目を通した文献の中に、手がかりがあるかもしれません」


「……確かに、炉の維持に関する儀式の手順書は何度か読んだが。あれは聖騎士の任務の一環だったからな」


「それです。カインさんの五百年分の知識と、私の炉との繋がりによる感覚的な理解、それから騎士団長の教会内部の実務知識。三人分を合わせれば——」


「見えなかったものが見えるかもしれない、か」


 レオンハルトが琥珀色の目でリーリエを見た。聖女に対する騎士の礼儀が抜けない目だったが、最近はそこに一人の人間への敬意も加わっていた。


「承知した。やれることはやる」


 解読が始まった。


 カインが壁画の記号を読み上げる。五百年の知識で古代語を解読し、記号の意味を一つずつ特定していく。その作業は遅く、根気のいるものだった。


 リーリエは炉を研究した聖女の計算ノートを照合する。数式の中に、壁画の記号と対応する変数を見つけ出す。聖女として炉と繋がっているリーリエには、計算式の意味が感覚的に「わかる」瞬間がある。数式が頭ではなく身体で理解できる不思議な感覚。


「ここ。この記号は——『分岐点』を意味しています」


 リーリエが指差した箇所に、カインが身を乗り出す。



 リーリエの指が数式の上を走った。教会で学んだ数学が、ここで役に立っている。皮肉なことに。自分を殺す炉の仕組みを教えた教育が——今、その炉を変えるための武器になっている。

「燃料供給の分岐点か。炉の構造を変える際の——切り替えポイント」


「はい。そして研究した聖女の計算では、この分岐点で一点集中を分散に切り替えるためには——」


「教会の儀式手順書に、類似の記述があった」


 レオンハルトが口を挟んだ。


「炉の燃料供給を一時的に停止する手順だ。年に一度の定期検査のときに使う。俺は形式的な儀式だと思っていたが——あれは炉の構造にアクセスする手順だったのか」


 三つの知識が交差した。壁画の記号が示す構造、計算ノートの理論、儀式手順の実務。一人では見えなかった全体像が、三人の知識を重ねることで姿を現し始めている。


「繋がりますね」


 リーリエの声が弾んだ。


 リーリエの目が記号の間を行き来した。数式と図像の間に見えない線が走っている。それを辿れば答えに近づける。直感がそう告げていた。


「壁画の記号と研究した聖女の計算式が一部一致します。初代聖女のメッセージ——『万の小さな灯火』——と計算が裏付け合っています」


「これは——本当に、実現可能な理論なのか?」


 レオンハルトが問うた。琥珀色の目に慎重さが浮かんでいる。


「まだ欠けている部分がありますが」


 リーリエは慎重に言葉を選んだ。


「方向性は見えてきました。壁画の全記号を解読できれば、理論の全体像が明らかになるはずです」


「聖女殿、一つ聞いていいか」


 レオンハルトが手を挙げた。


「仮にこの理論が正しいとして——世界中の人間から生命力を集める仕組みを、誰がどうやって管理する? 教会が管理するなら、結局は聖女制度の形を変えただけだ」


 鋭い指摘だった。リーリエは少し考えて答えた。


「管理ではなく、自律的な循環です。計算ノートによれば、分散型の炉は一度起動すれば自動的に維持されます。管理する組織は必要ありません。世界中の人々が——知らず知らずのうちに、呼吸をするように微量の生命力を炉に捧げる。それが『祈り』です」


「呼吸をするように……?」


「はい。意識する必要すらない。ただ——最初の起動だけは、自発的な意志が必要なんです」


 カインが頷く。深紅の瞳に探究の光が宿っている。五百年間追い続けてきた答えに、ようやく手が届きかけている。


「急ぐぞ。まだ解読すべき記号が山ほどある」


 三人は再び資料に向き合った。


 時間が流れた。魔灯の光が揺れ、紙の擦れる音と呟き声だけが書斎を満たしている。


 集中するリーリエの肩に、不意に温かいものが乗った。


 毛布だった。カインが背後からリーリエの肩にかけたのだ。


「……夜が冷える」


 カインはそれだけ言って席に戻った。


 レオンハルトが微笑ましそうに——いや、呆れたように目を細めた。


「……魔王殿は、聖女殿に甘いですね」


「うるさい」


 リーリエは毛布の端を握りながら、小さく笑った。緊張の中の、小さな温かさ。


 解読はまだ続く。壁画の記号は膨大で、計算ノートの数式は複雑で、一つの照合に何時間もかかることもある。気の遠くなる作業だ。


 けれど——一人じゃない。


 教会にいた頃、リーリエは全てを一人で背負っていた。痛みも、苦しみも、絶望も。分かち合える相手がいなかった。聖女という立場が、リーリエを孤立させていた。


 今は違う。カインがいる。レオンハルトがいる。リュカが城で待っている。一人では見えないものが、三人なら見える。一人では耐えられない重さが、三人なら持てる。



 夜が更けていった。蝋燭を何本も取り替えた。リュカが何度も茶を運んできた。けれど二人は止まらなかった。答えが近い。指先が触れそうなほど近い。


 リーリエの目が充血している。カインが「休め」と言った。リーリエが「もう少しだけ」と返した。いつもとは逆だ。以前はカインが「休め」と言い、リーリエが従った。今はリーリエが主導している。研究への情熱が——リーリエを前に押し出している。

 その事実だけで、リーリエの心は軽かった。


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