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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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壁画の秘密

 壁画は、封じられた部屋の奥の壁に掛けられていた。


 正確には壁画の模写だ。原画は教会の地下聖堂に封印されている。カインが五百年の間に何度か教会に忍び込み、密かに写し取ったものだった。筆致は荒いが構図は正確で、色彩までは再現できていないものの、線の一本一本を忠実に写している。


「何度も描き直した。最初の模写は二百年ほど前だ。劣化した部分を補うために、三十年おきに教会に潜入して原画を確認していた」


 カインの声は淡々としていたが、その言葉の裏にある執念にリーリエは息を呑んだ。三十年おきに教会に潜入する。魔王として追われる身でありながら。それを五百年間。



 壁画は大きかった。一辺が二メートルほどの正方形。古い顔料で描かれた図像が魔灯の光の中で微かに輝いている。中央に炎。その周囲を無数の小さな光の粒が取り巻いている。

 全ては——エルシェの遺志を読み解くために。


「これが——初代聖女の壁画」


 リーリエは壁画を見上げた。


 中央に巨大な炎が描かれている。白銀に輝く柱のような炎。聖なる炉の象徴だと一目でわかる。


 だが目を引くのはその周囲だった。巨大な炎を取り囲むように、無数の小さな灯火が描かれている。橙色、金色、淡い白——大きさも色も様々な灯火が、巨大な炎の周りに星座のように散らばっている。


「もう一つの炎……」


 リーリエは呟いた。この壁画についてはカインから聞いたことがあった。以前、「初代聖女の壁画に不思議な模様がある」とだけ。そのときは意味がわからなかった。


 今は——意味がわかる。


「あいつは最初から」


 カインが壁画の前に立ち、声を絞り出すように言った。


「別の方法を想い描いていたのかもしれない」


 巨大な炎は一点集中型の炉——一人の聖女の命を燃料にする、現在の仕組み。そしてその周囲の無数の灯火は——分散型の構想。多くの小さな命の光で、結界を維持する仕組み。


「エルシェは——時間があれば、最初からこちらの方法で炉を動かしたかったんですね」


 カインが頷いた。深紅の瞳が壁画を見つめている。そこには悼みがあった。しかし以前のような押し潰されそうな後悔ではなく、誇りを含んだ悼みだった。


「あいつは——本当に、未来のことまで考えていたんだな」


 カインの声に滲む感情は複雑だった。エルシェの先見性への敬意。自分がその意図に五百年間気づけなかったことへの悔恨。そして——エルシェが遺してくれた手がかりへの感謝。


 リーリエはそっとカインの手に触れた。言葉はかけなかった。今この人に必要なのは慰めではなく、ただ隣にいることだった。


 カインの手が微かに震えていた。しかし震えはすぐに収まり、カインは壁画に向き直った。



 壁画の隅に、小さな文字が書かれていた。古代語。リーリエが読み上げた。「一つの炎ではなく」。エルシェの言葉だ。壁画は美術品ではない。設計図だった。第三の道への——地図だった。

「よく見ろ、リーリエ。模様だと思っていた線が——」


 リーリエは壁画に目を凝らした。灯火と灯火の間を繋ぐように走る細い線。装飾のように見えるが、よく見ると——規則性がある。


「これは……記号、ですか?」


「ああ。古代語の記号に似ている。俺は五百年間、これを模様だと思い込んでいた。だが炉を研究した聖女の計算式と照合すると——」


 カインが研究ノートの一ページを壁画の隣に掲げた。計算式の中に使われている記号と、壁画の線の一部が一致する。


「この壁画は——炉の設計図の一部かもしれない」


 リーリエは壁画に指先を伸ばした。触れる寸前で止めた。顔料が剥がれるかもしれない。けれどこの壁画が伝えようとしているものを指先で感じ取りたかった。


 リーリエの心臓が速くなった。


 エルシェは壁画に偽装して、分散型の炉の構想を遺していた。教会が見つけても「聖女の描いた宗教画」としか思わない。しかし炉の仕組みを理解する者が見れば——設計図の断片だとわかる。


 壁画は教会の地下聖堂にある。五百年間、司祭たちが毎日その前を通り過ぎていたはずだ。誰もこの模様の意味に気づかなかった。エルシェの知性の深さを示す証拠だった。


「教会の地下にある原画には、もっと多くの記号が隠されているかもしれないな」


 カインが呟いた。


「模写では写しきれなかった部分がある。色の下に隠された記号や、立体的な凹凸に意味がある可能性もある」


「いずれは原画を確認する必要がありますね」


「ああ。だが今は——この模写から読み取れるものを、全て読み取る」


「見事な隠し方だ」


 カインが呟いた。声にかすかな笑みが混じっている。


「あいつらしい。正面からは隠せないから、見えるところに隠した」


 リーリエは壁画を見つめた。五百年前の少女が、未来のために遺した希望の設計図。


「カインさん」


「ああ」


「この壁画の記号と、研究した聖女の計算式と、エルシェさんのメッセージ——三つを統合すれば」


「第三の道が見えるかもしれない」


 カインの目が鋭くなった。五百年分の知識と経験を持つ目。探究者の目だった。


「解読を急ごう。壁画の記号を全て書き写して、計算式との照合を進める」


「はい」


 リーリエは頷いた。そしてもう一度、壁画を見上げた。


 無数の小さな灯火。一つ一つは弱く、小さい。しかし全てが集まれば——巨大な炎に匹敵する光になる。


 それは——聖女の犠牲に頼らない、もう一つの可能性。


 エルシェが信じた可能性を、カインが五百年追い続け、リーリエが今、形にしようとしている。


 二人は壁画の前に並んで立っていた。カインの手元にはペンと紙がある。記号を書き写す準備だ。


「記号の解読には時間がかかる。壁画の全体を正確に写し取る必要がある」


「手伝います。私は計算式と照合しますから、カインさんは記号の書き写しを」


「ああ。……ただし」


「ただし?」


「夜更かしは禁止だ」


 リーリエは小さく笑った。こういうところは変わらない。世界の仕組みを変えようとしているのに、カインが一番気にしているのはリーリエの睡眠時間だ。


「善処します」


「善処じゃない。確約しろ」


「……はい。わかりました」


 壁画の灯火に向き合い、リーリエはペンを握った。エルシェが遺した希望の設計図。それを読み解くのは、五百年後の聖女と、五百年前の聖騎士だ。時間を越えた共同作業。



 壁画の図像をリーリエは凝視した。中央の炎は一つ。大きく、力強い。けれどその周囲を取り巻く小さな光の粒が——数え切れないほどたくさんある。一つの強い炎と、万の小さな灯火。それが同じ壁画の中に描かれている。


 「これが——エルシェのメッセージの視覚的な表現ですね」


 リーリエが呟いた。カインが頷いた。

 壁画の中の灯火が、まるで呼吸するように揺れて見えた。


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