涙と微笑み
涙が止まらなかった。
リーリエは自分の頬を伝う雫に驚いていた。
教会にいた頃は泣けなかった。感情を凍結させていたから。身体は灼けるように痛むのに、目からは一滴も零れなかった。修道女が「聖女さまは強いのですね」と微笑んだ。強いのではない。壊れていただけだ。
教会にいた頃は泣けなかった。感情を凍結させていたから。泣くためのエネルギーすら炉に吸い取られていた。けれど今は違う。
崖から落ちそうになったときも泣かなかった。泣く理由がなかったから。死は解放だった。解放に涙は必要ない。
カインに拾われてからも、長い間泣けなかった。感情が少しずつ戻ってきても、泣き方を忘れていた。怒りは戻った。苛立ちも戻った。小さな喜びも。けれど涙だけは——戻らなかった。
なのに今は——止まらない。
「……ずるいです」
声が震えた。リーリエは涙を拭おうとして、手の甲で目元を押さえた。視界が滲んで、カインの姿がぼやける。
「そんなふうに言われたら、怒れなくなるじゃないですか」
怒りたかったのだ。本当は。
あなたは私を見ていなかった。私はあの人の代わりだった。そのことに怒る権利が、リーリエにはあった。怒って当然だった。
なのにカインは正直に認めた。飾らず、取り繕わず、「すまない」と言った。その誠実さが怒りの矛先を折ってしまう。
「……怒っていいぞ」
カインの声が聞こえた。低くて、困ったような声。
「怒ってましたよ、すごく」
リーリエは涙越しに笑った。笑いながら泣いている。こんな状態は初めてだった。
「毎日怒ってました。食卓で目を合わせてくれないのも、廊下ですれ違うときに黙っているのも、全部——腹が立って」
「……すまない」
カインの声が震えていた。不器用な男の不器用な言葉。言葉を探して見つけられなくて、それでも口を開く。その姿が五百年前にエルシェの前で膝をついた若い騎士と重なった。
「謝らないでください。余計に怒れなくなります」
カインが黙った。黙って立っている。五百年を生きた男が、十七歳の少女の涙の前で、ただ立ち尽くしている。
リーリエは涙を拭った。何度拭っても新しい雫が溢れてくる。こんなに涙が出るものなのかと、他人事のように思った。
「でも——もういいです」
「……いいのか」
リーリエは泣きながら笑った。矛盾していた。けれど矛盾しているからこそ——本物だった。作り笑いでは泣けない。泣きながら笑えるのは——感情が生きている証だ。凍結が溶けている証だ。
「はい。だって」
リーリエは顔を上げた。まだ涙が頬を光らせている。けれど目は——笑っていた。
「あなたが正直に答えてくれたから」
教会では誰も正直ではなかった。優しい微笑みの裏に、冷たい計算があった。「聖なる務めですよ」と言いながら、リーリエの命を燃料として勘定していた。真実は常に覆い隠され、リーリエは嘘の中で生きてきた。
カインは嘘をつかなかった。
「影越しに見ていた」と、自分の過ちを認めた。それがリーリエにとっては——何よりも尊い誠実さだった。
「カインさん」
「ああ」
「私の名前、もう一度呼んでください」
カインの深紅の瞳が揺れた。一瞬の躊躇い。しかしそれは「別の名前を飲み込む」間ではなかった。ただ——名前を呼ぶことの重みを噛みしめるような、一呼吸の沈黙。
「……リーリエ」
間がなかった。
「リー」の音から「リエ」の音まで、一息に。別の名前の影は微塵もない。深紅の瞳がリーリエだけを映している。
リーリエの胸の中で、何かが満ちた。
「はい」
涙の温度をリーリエは感じていた。頬を伝う雫が顎を伝い首筋に落ちる。温かい。自分の身体がこんなに温かいものを作れることに驚いた。凍っていたはずなのに。
一言。たった一言の返事が、これほど温かいものだとは知らなかった。
名前を呼ばれて、応える。ただそれだけの行為。けれどそこには——「あなたはあなただ」という確認と、「ここにいます」という応答が重なっている。
リーリエは最後の涙を指先で拭った。
「カインさん。私、ずっと怖かったんです」
「怖い?」
「あなたにとって、私が透明だったらどうしようって。教会では透明でした。聖女という機能だけを見られて、リーリエという名前は誰にも呼ばれなかった」
カインの表情が険しくなった。怒りだ。リーリエに対してではなく、リーリエをそのように扱った者たちに対する怒り。
「……もう透明じゃない。俺が——」
言葉が途切れた。照れなのか、それとも言い切る勇気がまだないのか。
リーリエは微笑んだ。
「わかっています。もう——わかっていますから」
窓の外で風が吹いた。カーテンが膨らみ、午後の光が部屋に満ちる。
二人はしばらく無言で立っていた。気まずい沈黙ではなかった。言葉が要らない時間だった。
カインが不意に手を伸ばした。
リーリエは身体を固くしたが、カインの指はただ——リーリエの頬に残った涙の跡を、そっと拭っただけだった。
無骨な指。剣を握り、魔法を操り、五百年間戦い続けてきた指。固くて、大きくて、傷だらけの指。その指が、リーリエの頬に触れた一瞬だけ、途方もなく優しかった。
指先から伝わる体温。人間離れした力を持つ手なのに、リーリエの肌に触れるときだけは、壊れ物を扱うように慎重になる。その慎重さが——カインの本性だとリーリエは思った。乱暴なのは表面だけだ。「食え」「寝ろ」と命令口調で言うのは、優しくする方法を忘れてしまっただけだ。
「……泣くな」
「泣いてません」
「泣いてただろう」
「もう泣いていません」
「……そうか」
カインの指がリーリエの頬から離れた。
その指先が微かに温かかったことを、リーリエは長い間覚えていた。
教会の壁は冷たかった。祭壇は冷たかった。聖衣は冷たかった。聖女の世界は、冷たいものばかりだった。
カインの指先は温かかった。
たったそれだけのことが——リーリエの世界を、少しだけ変えた。
その夜、リーリエは久しぶりに穏やかな眠りについた。夢を見た。夢の中でカインがリーリエの名前を呼んでいた。間はなかった。まっすぐに、迷いなく。
リーリエ、と。
カインの大きな手が、リーリエの涙を拭った。指先で。不器用に。けれど——これ以上ないほど優しく。その手は震えていた。「触れていいのか」と迷いながら触れている手。五百年ぶりに、誰かの涙に触れる手。
リーリエの涙が、カインの指を濡らした。温かい。人の涙は、こんなに温かいものだったか。カインは——忘れていた。人の温もりを。触れ合うことの温度を。
目が覚めたとき、枕に涙の跡が残っていた。悲しい涙ではなかった。




