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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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お前はお前だ

 リーリエの部屋の扉が叩かれたのは、昼過ぎのことだった。


 問いを投げてから五日が経っていた。五日間、リーリエはほとんど部屋に閉じこもっていた。食事はリュカが運んでくれた。「旦那様も食べてないっすよ」とリュカが心配そうに言ったが、リーリエは「ありがとうございます」と答えるだけだった。


 本を読もうとしても集中できなかった。窓の外を見ても、景色が目に入らなかった。ただ——カインの沈黙が、リーリエの胸の中でずっと反響していた。


 控えめな、しかし迷いのないノック。カインの叩き方だとすぐにわかった。リュカは軽快に連打するし、レオンハルトは律儀に三回叩く。カインは二回。いつも二回だけ、低く確かな音を立てる。



 五日間。リーリエはほとんど部屋に閉じこもっていた。食事はマリカが運んできたが半分も手をつけなかった。カインも書斎に篭っていた。問いが二人の間に見えない壁を作っていた。

「——入っていいか」


 低い声が扉越しに届いた。


 リーリエの心臓が跳ねた。数日間、まともに顔を合わせていなかった。食卓では目を逸らし、廊下ですれ違っても会話は最低限。あの朝の問いが二人の間に見えない壁を作っていた。


 その壁を、カインが叩きに来た。


「……どうぞ」


 リーリエは椅子に座ったまま答えた。声が掠れていないか確認してから、扉に目を向ける。


 扉が開いた。


 カインが立っていた。黒い外套。黒い髪。深紅の瞳。いつもと変わらない姿——しかし、何かが違う。


 目だ。


 カインの目が、まっすぐにリーリエを見ている。


 この数日間、カインはリーリエを見ることができなかった。視線が合いそうになると逸らしていた。それが今——逸らさない。深紅の瞳が、リーリエの青紫の瞳を正面から捉えている。


 その目の奥に、リーリエは見たことのないものを見た。覚悟だった。


 カインが部屋に入り、リーリエの前に立った。距離は二歩分。近すぎず、遠すぎない。しかしカインの存在感が空気を変える。部屋の温度が僅かに上がったような気がした。


 沈黙が数秒。


 カインが口を開いた。


「お前はお前だ」


 短い言葉だった。


 リーリエの息が止まった。


「誰の代わりでもない」



 カインの手が——リーリエに差し出された。「書斎に来い。話がある」。短い言葉。けれどその声には——五日間の葛藤が凝縮されていた。カインは考えていた。五日間ずっと。リーリエの問いの答えを。

 カインの声は低く、僅かに震えていた。だが目は逸らさない。リーリエから一瞬も目を離さない。


「……俺はそれを、忘れていた」


 一拍の間。


「お前を——あいつの影越しに見ていた」


 認めた。カインはそれを認めた。リーリエに問われた答えを、嘘なく、飾らずに。


 カインの声が扉越しに聞こえた。いつもより低い。いつもより柔らかい。五日間の沈黙を破る声は、嵐の後の凪のように静かだった。


「すまない」


 その一言に、五百年分の重みがあった。


 リーリエは動けなかった。椅子に座ったまま、カインを見上げている。視界が滲みそうになるのを、必死に堪えた。


 完璧な言葉ではなかった。理路整然とした説明でもなかった。カインは自分の感情の全てを言語化できてはいない。「お前はお前だ」——それだけでは、リーリエへの感情の正体はわからない。


 けれど——誠実だった。


 カインは嘘をつかなかった。取り繕わなかった。「影越しに見ていた」と認めることは、カインにとってどれほどの苦痛だったか。自分の過ちを、守るべき相手の前で認めること。それが不器用な男にできる精一杯の誠意だった。


 リーリエの目から、涙が一筋こぼれた。


 自分でも驚いた。涙を流すつもりはなかった。でも止められなかった。カインの言葉がリーリエの胸の奥に届いた瞬間、凍っていた何かが溶けて、液体になって目から溢れた。


「カインさん」


「……ああ」


「もう一つだけ、聞いていいですか」


 カインが頷く。


「今——私の名前を呼ぶとき、間がありませんでしたね」


 カインが瞬いた。


 そうなのだ。カインは先ほど「お前はお前だ」と言ったとき、リーリエを見つめて語った。「リー……」と言いかけて止まることはなかった。別の名前が唇を掠めることもなかった。


 カインの深紅の瞳が、微かに揺れた。


「……ああ。なかった」


 静かな確認。


 カインはリーリエを「リーリエ」として見ている。少なくとも——今この瞬間は。


 それだけで、十分だった。


 リーリエは涙を拭わずに、微笑んだ。目が笑っている笑顔だった。滲んだ視界の向こうに、カインの表情が映る。強張っていた顔が、ほんの僅かに——ほんの僅かだけ、緩んでいた。


「ありがとうございます」


 リーリエは静かに言った。


「答えてくれて」


 カインが何か言いかけた。しかし言葉にならず、代わりにぎこちなく視線を窓に逸らした。耳の端が赤い。五百年を生きた男の、不器用な照れだった。


「……礼を言われるようなことは、していない」


「いいえ。嘘をつかないでいてくれたこと——私にとっては、それが一番嬉しいです」


 教会では、誰もが嘘をついた。「あなたは聖なる存在です」と言いながらリーリエを消耗品として扱い、「世界があなたに感謝しています」と言いながらリーリエの悲鳴から耳を塞いだ。優しい言葉の裏に、常に別の意図があった。


 カインは違った。「世界のためだ」と嘘をついた——けれどその嘘は、自分自身を騙すための嘘であって、リーリエを騙すためのものではなかった。そして今、その嘘を自ら剥がして見せた。不器用で、完璧には程遠い言葉だけれど——嘘がない。


 それだけで、リーリエには十分だった。


 窓から差し込む午後の光が、二人の間を柔らかく照らしていた。


 カインが背を向けかけて、足を止めた。


「リーリエ」


「はい」


「……夕食は、一緒に食べるか」


 何日かぶりの、食卓への誘い。不器用すぎる言い方。しかしそこにカインの精一杯が詰まっていることを、リーリエは知っていた。


「はい。喜んで」


 カインが足早に去っていく。背中が微かに強張っているのは——照れているからだ。五百年を生きた男の、不器用すぎる照れ。


 リーリエは一人になった部屋で、窓の外を見つめた。


 胸が温かい。紋章の痛みは変わらない。けれどその痛みの隣に、もう一つの熱がある。紋章が灼くのとは違う、もっと柔らかくて、もっと優しい熱。



 扉が開いた。リーリエが立っていた。五日ぶりに見るカインの顔。無愛想で、不器用で、けれど——目の下に薄い隈がある。この人も眠れなかったのだと、リーリエにはわかった。

 それが何という名前の感情なのか——リーリエはまだ知らない。けれど、嫌ではなかった。


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