今この瞬間
リーリエとの記憶が、次々と蘇る。
カインは魔王城の屋上に腰を下ろし、夜空を見上げていた。冷たい石の床。背後に聳える黒い塔の影。風が外套を揺らし、黒い髪を乱す。
星が無数に散らばっている。五百年分の夜空を見てきた。一人きりでこの空を見上げた夜が、どれほどあっただろう。リュカが来る前の四百五十年間は、完全に孤独だった。星を見上げても、美しいとは思えなかった。ただの光の点だった。
今夜の星は——やけに近く感じた。
冬の夜空に星が散っている。空気が冷たい。吐く息が白い。けれどカインは寒さを感じなかった。身体の中でもっと冷たいものが渦巻いていた。リーリエの問いが——胸の奥で反響している。
崖で手を掴んだ日。
リーリエの手は氷のように冷たかった。体重がほとんどなかった。羽のように軽い少女が、崖の縁からぶら下がっている。深紅の瞳と青紫の瞳が交わった瞬間——カインの中で何かが動いた。
あのとき、「世界が終わるから」と言った。それは嘘ではない。しかし——あの瞬間の咄嗟の判断は、本当に世界のためだったのか。
「死なせてください」と言われた日。
リーリエが淡々と、まるで天気の話でもするように死を求めた。カインは苛立った。怒りを覚えた。しかしそれは聖女が死ぬことへの怒りだったのか、リーリエという人間が死を望んでいることへの怒りだったのか。
初めてリーリエが笑った日。
リュカの料理を食べて、リーリエがほんの僅かに目を細めた。笑顔と呼ぶには微かすぎる表情の変化。だがカインはそれを見逃さなかった。見逃せなかった。あの瞬間、胸の奥で何かが弾けた。嬉しかった。理由はわからないが——ただ嬉しかった。
リーリエが怒りを見せた日。
大司教の使者が聖女の返還を求めたとき、リーリエの目に初めて感情の炎が宿った。怒りだった。凍結していた感情の中から、最初に戻ったのが怒りだったことに、カインは安堵した。怒れるならまだ生きている。感情が死んでいないなら、まだ間に合う。
手を握ってくれた日。
リーリエが初めて自分から手を伸ばした。カインの手に、細い指が触れた。冷たい手だった——だが崖の日とは違う冷たさだった。生きている人間の体温だった。カインの手を握る力は弱かったが、離さなかった。
記憶の一つ一つが、贖罪では説明できない熱を帯びている。
「あいつが笑うと——」
カインは呟いた。
リーリエが笑うと、胸の中で何かが動く。温かいものが広がる。この人がずっと笑っていてほしいと思う。この人の笑顔を守りたいと思う。
それはエルシェのときとは違う感情だった。
エルシェへの想いは——過去を向いている。あの子を救えなかった悔恨。あの日に戻りたいという願い。もう二度と取り返せないものへの痛み。
リーリエへの想いは——今を向いている。
今この瞬間、この人に生きていてほしい。明日も、明後日も、その先も。この人の隣にいたい。この人の声を聞いていたい。
それは「贖罪」ではない。
贖罪は過去の罪を償う行為だ。しかしリーリエへの想いの中に「罪」はない。リーリエは過去ではない。リーリエは——今だ。
カインは胸に手を当てた。心臓が規則正しく脈打っている。五百年を動き続けた心臓が、今夜は少しだけ速い。
「……あいつが笑うと、俺の中で——何かが動く」
もう一度、声に出して確認した。
「初代聖女のときとは違う。あの子への後悔は過去を向いている。だがリーリエへの想いは——今この瞬間を向いている」
言葉にした瞬間、霧が晴れるような感覚があった。五百年間、一つの箱に無理やり押し込んでいた二つの感情が、ようやく分離した。
エルシェへの想い——それは取り返しのつかない後悔。五百年の悼み。
リーリエへの想い——それは今この瞬間の、この人に生きていてほしいという願い。
二つは似ているように見えて、全く別のものだった。
では——この「願い」に名前をつけるとすれば。
カインは空を仰いだ。答えが唇の端まで来ている。しかしまだ言葉にする勇気がない。五百年間、自分の幸福を許してこなかった男には、その一言が途方もなく重い。
だが——答えはもう、カインの中にある。
リーリエの笑顔を、一つずつ思い出す。教会を出たばかりの虚ろな微笑み。少しずつ力が抜けていった柔らかい笑み。リュカの冗談に目を細めた笑み。古い文献を解読して「わかりました」と目を輝かせた笑み。
そのどれもが、カインの胸を熱くする。
「……ああ」
カインは片手で顔を覆った。
「そういうことか」
星空が滲んだ。涙ではない。ただ——五百年ぶりに、胸の内に「今」が流れ込んできたのだ。過去ではなく。後悔ではなく。
名前を呼ぶとき、もう「エル」の音が唇に浮かばない。「リーリエ」——その四音が、カインの中で確かな重みを持ち始めている。初代聖女とは違う響き。初代聖女とは違う温度。初代聖女とは違う——感情。
五百年間、カインは「止まったら壊れる」と走り続けてきた。立ち止まって自分の心を見つめれば、後悔に押し潰される。だから走った。文献を集め、手がかりを追い、答えを探し続けた。
しかし今——立ち止まっても壊れなかった。リーリエの問いが立ち止まらせ、自分の心と向き合わせ——それでもカインは壊れなかった。むしろ逆だ。立ち止まったことで、初めて自分の中の「今」に気づいた。
今を、生きている。
五百年間、カインは死んでいたのかもしれない。身体は動き、呼吸をし、戦いもした。しかし心は——あの日の炉の前で止まっていた。エルシェが消えたあの瞬間から、カインの心は時を刻むのを止めていた。
リーリエが問いを投げて、時計の針が動き始めた。あなたは私を見ていますか。その問いが、カインの凍りついた時間を溶かした。
恐ろしい。途方もなく恐ろしい。五百年間止まっていたものが動くのだ。錆びた歯車が軋みを上げ、止まっていた振り子が揺れ始める。その音が——恐ろしくて、同時に、泣きたくなるほど懐かしい。
生きている。今、この瞬間を。
それがどれほど恐ろしく、どれほど眩しいことか。
カインは深く息を吸い、吐いた。冷たい夜気が肺を満たす。
答えは見つかった。いや——ずっとそこにあったものを、ようやく認めることができた。
あとは——それを言葉にして、リーリエに伝えなければならない。
完璧な言葉でなくていい。全てを伝えきれなくてもいい。ただ——嘘のない言葉を。
星を見上げるカインの脳裏に、二人の顔が交互に浮かんだ。金色の髪と翠の瞳。銀灰色の髪と青紫の瞳。二人は似ていない。外見も、性格も、声も。けれどカインの中で——二人が重なる瞬間がある。聖女としての運命を背負う姿が。命を削られる姿が。
カインは立ち上がった。夜明けはまだ遠いが、カインの中ではもう夜が明けていた。




