取り返しのつかないもの
夜明け前の封じられた部屋で、カインは初代聖女の手紙を広げていた。
何百回と読み返した手紙だ。紙の質感も、インクの匂いも、一文字一文字の筆跡も暗記している。目を閉じても全文を暗唱できる。
「あなたが見つけてくれると信じています。時間はかかるかもしれない。でも、あなたなら」
エルシェの声が聞こえる。穏やかで、けれど揺るぎない声。あの子は最後まで——最後の最後まで、カインを信じていた。
蝋燭の炎が手紙の文字を照らしている。エルシェの丸みを帯びた筆跡。震えている箇所がある。けれど最後の一行だけは真っ直ぐだった。迷いなく、確かに。
その信頼が、五百年間カインを支えた。
同時に、五百年間カインを縛った。
「エルシェ」
名前を呼んだ。声にして呼んだのは、いつ以来だろう。普段は心の中ですら呼ばない。呼べば傷が開く。呼べば炉の中で消えていくあの子の背中が蘇る。
だが今は——呼ばなければならない。
「お前を救えなかったことは、取り返しがつかない」
言葉が石壁に吸い込まれる。
「それは永遠に消えない。百年経っても、千年経っても。俺がこの世からいなくなっても——この後悔は消えない」
声が震えた。五百年ぶりに、カインの声が震えた。
ずっと蓋をしてきた。この感情に。「贖罪」という言葉で覆い隠してきた。贖罪ならば崇高だ。贖罪ならば意味がある。しかしその贖罪の下にあるものの正体を、カインは認めなければならなかった。
後悔だ。
純粋な後悔。
もっと早く気づいていれば。もっと強ければ。もっと賢ければ。エルシェが炉に歩く前に、別の方法を見つけられていれば。
だがそれは叶わなかった。時間がなかった。力が足りなかった。エルシェは死に、カインは一人残された。
残されたカインがすべきだったことは、「贖罪」ではなかったのかもしれない。
エルシェは言ったのだ。「次の聖女を救うことはできる」と。それは贖罪の命令ではなかった。希望の託しだった。お前にはまだできることがある——そういう意味だった。
なのにカインはそれを「罪を償え」と読み替えた。希望を鎖に変えた。
東の空が白み始めた。夜明けが近い。カインは手紙を額縁に戻し、封じられた部屋を出た。重い扉を閉めるとき——振り返らなかった。振り返れば、また五百年前に沈む。
「……すまない」
誰に向けた謝罪かわからなかった。エルシェにか。リーリエにか。自分自身にか。
手紙を胸に抱いた。紙の温もりが指に伝わる。五百年前の温もりは残っていないはずなのに、カインにはエルシェの体温が感じられるような気がした。
後悔は消えない。一生消えない。
だが——と、カインは思った。
後悔が消えないことと、前に進めないことは、同じではないのではないか。
後悔を抱えたまま、前を向くことはできないのか。悼みながら、歩くことはできないのか。
カインは手紙を胸に押し当てた。紙の感触が五百年前のエルシェの体温を伝えるはずもない。けれどそうせずにはいられなかった。
エルシェの手紙をもう一度読み返す。
「あなたが見つけてくれると信じています」
この言葉は鎖ではない。カインが勝手に鎖にしただけだ。エルシェが望んだのは、カインが罪に潰されることではなく——カインが前に進むことだった。
五百年かけて、ようやくそのことに気づいた。
手紙をそっと下ろした。手放すのではない。胸の中にしまうのだ。この後悔は、この痛みは、カインの一部だ。消す必要はない。消せるものでもない。
だが——もう、この痛みだけを見つめて生きるのは、やめよう。
カインは手紙を丁寧に布で包み、棚に戻した。指先が布の上に留まる。
「お前を忘れるわけじゃない」
静かな声だった。震えはもう止まっていた。数百年ぶりに、声に芯がある。
「お前のことは——ずっと、ここにある」
左の胸に手を当てた。心臓の鼓動が指に伝わる。五百年間、この心臓はエルシェへの後悔を動力に鳴り続けてきた。それを否定するのではない。後悔が消えなくても、心臓は止まらない。新しい動力を得て、鼓動を続けることができる。
「だが、俺は——」
言葉が途切れた。その先を言うのは、まだ早い。まだ整理しきれていない感情がある。初代聖女への想いが「後悔」であることは認められた。では——リーリエへの想いは何なのか。
答えは出ていない。
しかし問いの形が変わった。「なぜ答えられないのか」から、「答えは何なのか」へ。
前を向き始めている。
窓の外で夜明けの光が空の端を薄く染め始めていた。藍色の空に淡い金色が滲んでいる。エルシェの髪の色に——似ていた。
カインは手紙の隣に置かれた懐中時計を手に取った。針は止まっている。五百年前に止まったまま、動いていない。エルシェが炉に歩いた日の、最後の時刻を指している。
この時計のように、カインの時間も止まっていた。あの日から五百年間、カインは同じ場所に立ち続けていた。あの日の後悔を抱えて、あの日の記憶に囚われて。
しかし——時計は動かなくても、カインは動ける。
懐中時計を棚に戻した。手紙の隣に。エルシェの遺品は全て、ここに安らかに眠っていればいい。カインはもう、毎夜この部屋に来る必要はない。
カインは封じられた部屋を出た。廊下に朝の光が射し込んでいる。柔らかい光が石壁を白く染めている。
遠くで、リーリエの部屋の扉が開く音がした。
カインの足が止まった。
リーリエが廊下に出てくる。銀灰色の髪が朝日に光る。目が合う——一瞬。リーリエがすぐに視線を逸らし、小さく会釈して歩き去る。
その後ろ姿を、カインは見送った。
華奢な背中。少し猫背気味の肩。教会の白衣ではなく、魔王城の黒い服に包まれた細い体。
あの背中が消えることが——怖い。
エルシェのときとは違う恐怖だった。エルシェを失ったときの恐怖は、「守れなかった」という過去への恐怖だった。今感じている恐怖は——「失いたくない」という未来への恐怖だ。
その違いに気づいたとき、カインの足が一歩、リーリエのほうに踏み出していた。
しかし声はかけられなかった。まだ、言葉がない。リーリエに伝えるべき答えが、まだ形をなしていない。
だから今は——歩く。前に。
カインは窓辺に歩み寄った。夜明けの光が差し込み、手紙の文字が微かに浮かび上がっている。エルシェの筆跡。五百年間守り続けた文字。その一画一画に——エルシェの体温が宿っている。少なくともカインには——そう感じられた。
けれどリーリエの問いが、心の中でこだましている。「あなたは私を見ているの?」。カインは目を閉じた。リーリエを見ているつもりだった。けれど——本当に? エルシェの影を重ねていないと、言い切れるか?
初代聖女への後悔を胸にしまい、前を。




