表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

225/237

取り返しのつかないもの

 夜明け前の封じられた部屋で、カインは初代聖女の手紙を広げていた。


 何百回と読み返した手紙だ。紙の質感も、インクの匂いも、一文字一文字の筆跡も暗記している。目を閉じても全文を暗唱できる。


「あなたが見つけてくれると信じています。時間はかかるかもしれない。でも、あなたなら」


 エルシェの声が聞こえる。穏やかで、けれど揺るぎない声。あの子は最後まで——最後の最後まで、カインを信じていた。



 蝋燭の炎が手紙の文字を照らしている。エルシェの丸みを帯びた筆跡。震えている箇所がある。けれど最後の一行だけは真っ直ぐだった。迷いなく、確かに。

 その信頼が、五百年間カインを支えた。


 同時に、五百年間カインを縛った。


「エルシェ」


 名前を呼んだ。声にして呼んだのは、いつ以来だろう。普段は心の中ですら呼ばない。呼べば傷が開く。呼べば炉の中で消えていくあの子の背中が蘇る。


 だが今は——呼ばなければならない。


「お前を救えなかったことは、取り返しがつかない」


 言葉が石壁に吸い込まれる。


「それは永遠に消えない。百年経っても、千年経っても。俺がこの世からいなくなっても——この後悔は消えない」


 声が震えた。五百年ぶりに、カインの声が震えた。


 ずっと蓋をしてきた。この感情に。「贖罪」という言葉で覆い隠してきた。贖罪ならば崇高だ。贖罪ならば意味がある。しかしその贖罪の下にあるものの正体を、カインは認めなければならなかった。


 後悔だ。


 純粋な後悔。


 もっと早く気づいていれば。もっと強ければ。もっと賢ければ。エルシェが炉に歩く前に、別の方法を見つけられていれば。


 だがそれは叶わなかった。時間がなかった。力が足りなかった。エルシェは死に、カインは一人残された。


 残されたカインがすべきだったことは、「贖罪」ではなかったのかもしれない。


 エルシェは言ったのだ。「次の聖女を救うことはできる」と。それは贖罪の命令ではなかった。希望の託しだった。お前にはまだできることがある——そういう意味だった。


 なのにカインはそれを「罪を償え」と読み替えた。希望を鎖に変えた。



 東の空が白み始めた。夜明けが近い。カインは手紙を額縁に戻し、封じられた部屋を出た。重い扉を閉めるとき——振り返らなかった。振り返れば、また五百年前に沈む。

「……すまない」


 誰に向けた謝罪かわからなかった。エルシェにか。リーリエにか。自分自身にか。


 手紙を胸に抱いた。紙の温もりが指に伝わる。五百年前の温もりは残っていないはずなのに、カインにはエルシェの体温が感じられるような気がした。


 後悔は消えない。一生消えない。


 だが——と、カインは思った。


 後悔が消えないことと、前に進めないことは、同じではないのではないか。


 後悔を抱えたまま、前を向くことはできないのか。悼みながら、歩くことはできないのか。


 カインは手紙を胸に押し当てた。紙の感触が五百年前のエルシェの体温を伝えるはずもない。けれどそうせずにはいられなかった。


 エルシェの手紙をもう一度読み返す。


「あなたが見つけてくれると信じています」


 この言葉は鎖ではない。カインが勝手に鎖にしただけだ。エルシェが望んだのは、カインが罪に潰されることではなく——カインが前に進むことだった。


 五百年かけて、ようやくそのことに気づいた。


 手紙をそっと下ろした。手放すのではない。胸の中にしまうのだ。この後悔は、この痛みは、カインの一部だ。消す必要はない。消せるものでもない。


 だが——もう、この痛みだけを見つめて生きるのは、やめよう。


 カインは手紙を丁寧に布で包み、棚に戻した。指先が布の上に留まる。


「お前を忘れるわけじゃない」


 静かな声だった。震えはもう止まっていた。数百年ぶりに、声に芯がある。


「お前のことは——ずっと、ここにある」


 左の胸に手を当てた。心臓の鼓動が指に伝わる。五百年間、この心臓はエルシェへの後悔を動力に鳴り続けてきた。それを否定するのではない。後悔が消えなくても、心臓は止まらない。新しい動力を得て、鼓動を続けることができる。


「だが、俺は——」


 言葉が途切れた。その先を言うのは、まだ早い。まだ整理しきれていない感情がある。初代聖女への想いが「後悔」であることは認められた。では——リーリエへの想いは何なのか。


 答えは出ていない。


 しかし問いの形が変わった。「なぜ答えられないのか」から、「答えは何なのか」へ。


 前を向き始めている。



 窓の外で夜明けの光が空の端を薄く染め始めていた。藍色の空に淡い金色が滲んでいる。エルシェの髪の色に——似ていた。

 カインは手紙の隣に置かれた懐中時計を手に取った。針は止まっている。五百年前に止まったまま、動いていない。エルシェが炉に歩いた日の、最後の時刻を指している。


 この時計のように、カインの時間も止まっていた。あの日から五百年間、カインは同じ場所に立ち続けていた。あの日の後悔を抱えて、あの日の記憶に囚われて。


 しかし——時計は動かなくても、カインは動ける。


 懐中時計を棚に戻した。手紙の隣に。エルシェの遺品は全て、ここに安らかに眠っていればいい。カインはもう、毎夜この部屋に来る必要はない。


 カインは封じられた部屋を出た。廊下に朝の光が射し込んでいる。柔らかい光が石壁を白く染めている。


 遠くで、リーリエの部屋の扉が開く音がした。


 カインの足が止まった。


 リーリエが廊下に出てくる。銀灰色の髪が朝日に光る。目が合う——一瞬。リーリエがすぐに視線を逸らし、小さく会釈して歩き去る。


 その後ろ姿を、カインは見送った。


 華奢な背中。少し猫背気味の肩。教会の白衣ではなく、魔王城の黒い服に包まれた細い体。


 あの背中が消えることが——怖い。


 エルシェのときとは違う恐怖だった。エルシェを失ったときの恐怖は、「守れなかった」という過去への恐怖だった。今感じている恐怖は——「失いたくない」という未来への恐怖だ。


 その違いに気づいたとき、カインの足が一歩、リーリエのほうに踏み出していた。


 しかし声はかけられなかった。まだ、言葉がない。リーリエに伝えるべき答えが、まだ形をなしていない。


 だから今は——歩く。前に。



 カインは窓辺に歩み寄った。夜明けの光が差し込み、手紙の文字が微かに浮かび上がっている。エルシェの筆跡。五百年間守り続けた文字。その一画一画に——エルシェの体温が宿っている。少なくともカインには——そう感じられた。


 けれどリーリエの問いが、心の中でこだましている。「あなたは私を見ているの?」。カインは目を閉じた。リーリエを見ているつもりだった。けれど——本当に? エルシェの影を重ねていないと、言い切れるか?

 初代聖女への後悔を胸にしまい、前を。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ