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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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初代の影

 初代聖女の日記は、五百年の時を経て紙が脆くなっている。


 カインは慎重にページを捲った。保存魔法で辛うじて原形を留めているが、インクの一部は滲み、読めなくなった箇所もある。それでもエルシェの筆跡は、五百年前と変わらず明晰だった。


「今日は炉の第三層の計算に進んだ。結界の持続に必要な生命力の総量は、一人の聖女が百年分の寿命で賄える。だが百人から一年分ずつ集められるなら——理論上は同じ結果が得られる」


 エルシェの声が聞こえる気がした。研究に没頭しているときの、少し早口になる癖。計算式を指でなぞりながら「ねえ、カイン、見て」と振り返る横顔。翠色の瞳に知性の光を湛えて、世界の仕組みを解き明かすことに無邪気な喜びを見せていた少女。



 ページの端が朽ちかけている。五百年の歳月は紙を脆くしインクを薄くする。けれどエルシェの言葉はまだ読める。まだ生きている。

 リーリエとは、違う。


 カインの手が止まった。


 リーリエとは——違うのだ。


 エルシェは能動的だった。自ら問いを立て、自ら答えを探し、自ら道を切り拓こうとした。笑い方も声も、佇まいも全てが異なる。エルシェの笑顔は太陽のようだった。リーリエの笑顔は——月のようだ。穏やかで静かで、けれど見つめるほどに目が離せなくなる。


 似ている、と思ったことがある。


 しかしリーリエの問いが突きつけた真実は、「似ている」のではなく「重ねている」ということだった。


 カインは自分の手を見た。リーリエの名前を呼ぶとき、いつも一瞬止まる手。「リー」と発音しかけて——「エル」と言いそうになる口。五百年の癖。五百年の呪い。


 認めなければならない。


 カインはリーリエにエルシェの影を投影していた。銀灰色の髪に金色の髪を重ね、青紫の瞳に翠色の瞳を重ね、「聖女」という一点だけで二人を結びつけていた。崖で手を掴んだ瞬間、カインの脳裏をよぎったのはリーリエの顔ではなかった。炉に向かうエルシェの背中だった。あの日の後悔が、あの日の無力感が、五百年越しに手を伸ばさせた。


 リーリエを助けたのは、リーリエのためだったのか。それとも——エルシェを助けられなかった自分自身を、救うためだったのか。


 それは——リーリエへの侮辱ではないか。


 胸が軋む。自己嫌悪が腹の底から這い上がってくる。



 エルシェの日記の中に、カインのことが書かれていた。「今日もカインさんは訓練場で剣を振っていた。真面目な人。笑うともっと素敵なのに」。五百年前のエルシェが見たカインと、リーリエが見ているカインが——重なった。そして少しだけ——ずれた。

「リーリエはリーリエだ」


 声に出して言い聞かせた。けれどその言葉を口にした瞬間、カインは気づいた。言い聞かせなければならないこと自体が問題なのだ。本当に違うと思っているなら、確認する必要などない。


 五百年間、カインは自分の感情を精査してこなかった。「贖罪」というラベルを貼り、その中に全てを放り込んできた。聖女を守る理由も、戦う理由も、生きる理由も。すべてが「あの子を救えなかった罪を償うため」——そう言い聞かせれば、感情の正体と向き合わなくて済んだ。


 だがリーリエが問いを投げた。


 あなたは私を見ていますか。


 その問いが「贖罪」のラベルを剥がしにかかっている。ラベルの下には何があるのか。カインは——怖い。


 回想が去来する。


 エルシェが炉に向かう最後の夜。カインはエルシェの手を掴んだ。「行くな」と言った。エルシェは振り向いて、泣きながら微笑んだ。


「カイン、あなたは私を止められない。でも、次の聖女を救うことはできる」


 あの言葉を、カインは五百年間守ってきた。次の聖女を救う。それが使命であり、贖罪であり、存在理由だった。


 しかし今——その「次の聖女」に名前がある。顔がある。声がある。朝食でスプーンを持つ仕草がある。リュカの軽口に小さく目を細める癖がある。夜更かしして古い文献を読む習性がある。


 リーリエ。


 カインの指がページの上で止まった。ある一節で。何度も読んだはずの一節で。けれど今夜はその言葉が違う意味を持って胸に刺さった。リーリエの問いがカインの読み方を変えていた。


 その名前が、「次の聖女」という記号を超えて、カインの中で重みを増している。


 ふと、エルシェとリーリエの決定的な違いに気づいた。


 エルシェは強かった。明るかった。自分の運命を自ら選び、その結果に涙しながらも前を向いた。


 リーリエは——静かだ。壊れそうで、壊れない。感情を凍らせて、それでも生き延びて、崖の縁に立ってなお穏やかに微笑んでいた。折れないのではない。折れる余力すらなくなるまで削られて、それでも立っている。


 その強さは——エルシェとは違う種類の強さだ。


 カインの胸が熱くなった。


 リーリエは静かだ。壊れそうなほど繊細で、けれど芯が折れない。感情を凍結させて、二年間の灼熱を耐え抜いて、崖の縁に立ってなお穏やかに微笑んでいた。その強さは刃のように鋭く、同時に、触れれば壊れそうなほど儚い。


 リュカの料理を食べて目を細めた日。大司教の使者に怒りを見せた日。手を握ってくれた日。「ここにいたい」と初めて願いを口にした日。それらの記憶は全て——エルシェの記憶とは重ならない。リーリエだけの記憶だ。リーリエだけが見せてくれた顔だ。


 この熱は何だ。贖罪か。同情か。


 それとも——。


 答えは出ない。まだ出ない。しかし問いが輪郭を持ち始めている。「重ねていた」ことに気づいた以上、次に問うべきは——重ねていない部分は何か、ということだ。


 リーリエにだけ向けられている感情は、何だ。


 カインは日記を閉じた。


 部屋の隅に目をやる。壁に掛けられた壁画の模写が、薄暗がりの中に浮かんでいる。一つの巨大な炎と、無数の小さな灯火。エルシェが遺した、もう一つの可能性の絵。


 あの壁画の意味を、カインはまだ完全には解き明かせていない。しかし今——解き明かしたいと思う気持ちが、以前とは違う動機に根ざしている。


 以前は「贖罪のため」に解読しようとしていた。エルシェの遺志を果たすため。過去の罪を償うため。


 今は——リーリエのために。リーリエを、聖女という枷から解放するために。


 その動機の変化に、カインは気づいている。気づいていて——まだ名前をつけられない。


 しかし変化は始まっている。止められない。止めたくない。



 カインは日記を閉じた。革装丁の表紙に手を置いたまま、目を閉じた。エルシェの言葉が脳裏で反響している。そしてその反響の合間に——リーリエの声が混じる。「あなたは私を見ているの?」。二つの声が交互に響き、カインの心を揺さぶっている。

 封じられた部屋の薄暗がりの中で、エルシェのペンダントが微かに光っているような気がした。


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