距離
食卓が、静かだった。
魔王城の食堂は広い。天井の高い石造りの部屋で、壁際に大きな暖炉がある。暖炉の火がぱちぱちと音を立て、橙色の光が食卓を照らしている。窓の外には朝の庭が見える。名も知らぬ花が風に揺れ、小鳥が枝の間を飛び回っている。穏やかな朝の風景だった。
リュカが腕によりをかけた朝食が並んでいる。焼きたてのパン、香草入りのスープ、蜂蜜を添えたチーズ、それに季節の果物を薄く切ったもの。リーリエの好物ばかりを揃えた献立は、いつもと変わらない。リュカはリーリエの食の好みを正確に把握していて、毎朝少しずつ品目を変えながら、必ずリーリエの好きなものを一つは入れてくる。
変わったのは、空気だった。
リーリエは目を伏せたままスプーンを動かしている。スープを掬い、口に運び、飲み込む。機械的な動作。味が舌の上を滑っていくが、今日はリュカの料理の温かさが胸まで届かない。
視線を上げられなかった。
カインが正面に座っている。いつもの席。いつもの距離。なのに、途方もなく遠い。
カインも黙っている。パンを千切る手が、微かに固い。リーリエの方を見ようとして、視線を逸らす。何度も。何度も。
二人の間に見えない壁がある。昨日までは確かにそこにあった温度が、今朝は消えている。
「……二人とも、今日は随分静かっすね」
リュカが給仕の手を止めて、不安そうな声を上げた。琥珀色の瞳が二人の間を行ったり来たりしている。
「少し疲れているだけです」
リーリエは笑顔を作った。穏やかで、当たり障りのない笑顔。教会にいた頃、司祭たちの前で何百回と浮かべてきた笑顔。自分の感情を包み隠すための、使い慣れた仮面。
「リュカさん、スープおいしいです」
「え、あ、ありがとうございます。……旦那様も、食べてくださいよ。冷めちゃいますよ」
「ああ」
カインの返事は短かった。スープを口に運ぶ。視線はスープの水面に落ちたまま。
リュカの尖った耳がぴんと立っている。何かを察しているのだ。この従者は、こういうところだけは鋭い。
「あのー……もしかして、喧嘩しました?」
リーリエとカインの手が、同時に止まった。
「していません」
「してない」
ぴったり重なった否定に、リュカが「うわ」と小さく呟いた。
「してないってことは、してますよね……。旦那様、何やらかしたんすか」
「黙れ、リュカ」
「いつも旦那様が原因なんすから。お嬢、何されたんすか? 言ってくれれば俺が説教しますよ」
「本当に大丈夫です」
リーリエは再び微笑んだ。リュカの気遣いが温かくて、同時に痛かった。この従者の前では、嘘が通じない。リュカは軽薄に見えて、人の機微を読む力が鋭い。今もリーリエの笑顔の裏にある痛みに気づいているだろう。けれど深くは踏み込んでこない。そこがリュカの優しさだった。
「あー……じゃあ、お茶のおかわり入れますね。お嬢、今日は何がいいすか。蜂蜜入りの花茶と、普通のハーブ茶と——」
「花茶で。ありがとうございます」
「旦那様は?」
「……何でもいい」
「何でもいいって言うの、旦那様の悪い癖っすよ。じゃあ強い茶にしときますね。最近睡眠不足でしょう」
リュカの軽い声が食卓の重苦しさを僅かに和らげる。しかし根本的な沈黙は変わらない。
食事が終わるまでの時間が、ひどく長かった。
リーリエが席を立つ。食器を下げようとする手に、別の手が伸びた。カインの手が皿を持ち上げ、さりげなくリーリエの食器をまとめる。
いつもの行動だった。リーリエが食器を運ぼうとすると、カインが先に手を出す。最初は「客に雑事をさせるな」という理屈だった。いつの間にか、それは当たり前の仕草になっていた。
今日もカインはそれをした。目を合わせられないまま。距離ができても。何も解決していないまま。
それでも——リーリエの食器を持つ手は変わらなかった。
リーリエは足を止めた。
カインの手を見ている。大きくて、剣を握るために鍛えられた手。その手がリーリエの皿を丁寧に重ねている。乱暴な動作が一つもない。リーリエの物に触れるとき、カインの手はいつも慎重になる。
——これは、優しさですか。それとも、義務感ですか。
わからない。それが一番苦しい。
カインの優しさは本物だとリーリエは信じたい。食事を取り分けてくれること、夜更かしを叱ってくれること、体調を気にかけてくれること。それらが全部「贖罪」の一部だと言われたら——リーリエは、どうすればいいのだろう。
部屋に戻った。
扉を閉めて、一人きりの静寂に包まれる。ベッドの端に腰を下ろし、窓の外を見た。青い空。白い雲。魔王城の庭に咲く花が風に揺れている。
平和な景色だった。
リーリエはその景色を眺めながら、胸の中の冷たさと向き合っていた。
怖いのだ。カインにとって自分が「エルシェの代わり」でしかなかったら。五百年前に失った人の影を、リーリエという器に投影しているだけだったら。リーリエの笑顔も、リーリエの言葉も、リーリエの存在も——全部、別の誰かに重ねられていたとしたら。
それは、透明でいるのと同じだ。
教会では透明だった。「聖女」という機能だけを求められ、リーリエという個人は誰にも見られなかった。ここでもそうなのだとしたら——
不意に、廊下を歩く足音が聞こえた。重く、しかし慎重な足音。カインだ。足音がリーリエの部屋の前で止まる。
数秒の沈黙。
それから足音は遠ざかった。入ってはこなかった。
けれどリーリエにはわかった。カインが扉の前で立ち止まり、部屋の灯りが点いているか——リーリエが起きているか——確認してから去っていったのだと。
毎晩の行動だった。リーリエが眠りについたか確かめに来る。灯りが消えていれば安心して去る。点いていれば翌朝「寝不足だろう」と小言を言う。
今夜も、それは変わらなかった。
リーリエは膝を抱えた。
この人の優しさが本物でないはずがないと、心のどこかでは知っている。あの大きな手が皿を丁寧に重ねる仕草は、作り物ではない。灯りが消えたか確認しに来る足音は、義務だけでは説明がつかない。
けれど「本物の優しさ」と「リーリエに向けられた優しさ」は、同じものとは限らない。カインの優しさの根源が「贖罪」であるならば——それはリーリエ個人に向けられたものではなく、「聖女」という存在に向けられたものだ。リーリエがリーリエでなくても、聖女でありさえすれば、カインは同じことをするのではないか。
その仮定が——一番怖い。
教会では「聖女」であるが故に大切にされた。けれどそれは「リーリエ」が大切にされたのではない。リーリエが明日消えても、次の聖女が覚醒すれば教会は困らなかっただろう。
ここでも同じだとしたら。
リーリエは毛布を引き上げ、身体を丸めた。眠れないことはわかっていた。目を閉じても、カインの一瞬の間が瞼の裏に浮かぶ。「リー……」と言いかけて、飲み込む。その音が——リーリエの耳から離れない。
距離は縮まらない。
けれどカインの足音は、今夜も廊下に響いていた。




