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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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答えられない

 封じられた部屋は、いつも黄昏の色をしている。


 カインは重い扉を閉め、一人きりの暗がりに身を沈めた。壁際の棚に並ぶ遺品が、薄い魔灯の光に浮かび上がる。褪せた日記。壊れかけの懐中時計。そして——白い布に包まれた小さなペンダント。


 エルシェの遺品。五百年前から、カインが唯一手放さなかったもの。


 椅子に腰を下ろし、ペンダントを手に取る。掌の中で、冷たい金属が微かに脈打つような気がした。五百年分の記憶が染み込んだ金属。何度握りしめたかわからない。眠れない夜、答えが見つからない朝、孤独が喉を締め付ける黄昏——いつもこのペンダントがカインの掌の中にあった。



 埃の匂い。古い紙の匂い。蝋の匂い。この部屋には五百年分の時間が凝縮されている。カインが一人で守り続けてきた時間の重さが、薄暗い空気の中に漂っていた。

「——なぜ、答えられない」


 声に出した問いが、石壁に反響して消えた。


 リーリエの問いが頭から離れない。あなたは私を見ていますか——それとも彼女の影を。


 あの問いを発したとき、リーリエの声は震えていた。必死に抑えていたのだろうが、カインの耳は聞き取った。怒りではなかった。悲しみに近い何かだった。そしてカインが答えられずにいると、リーリエは微笑んだ。あの笑顔——目が笑っていない穏やかな笑み。教会にいた頃と同じ、感情を封じ込めるための笑顔。


 あの笑顔をさせたのは、カインだ。


 あの薄い青紫の瞳がまっすぐにカインを射抜いた瞬間、カインの中で何かが壊れた。いや、壊れたのではない。今まで見えないふりをしていたものが、目の前に突きつけられたのだ。


 カインは目を閉じた。


 遺品の匂いがする。古い紙と、かすかな花の残り香。エルシェは花を好んだ。部屋にいつも野花を飾っていた。その習慣を——リーリエもしている。リュカが毎朝部屋に花を挿しているのを、リーリエは嫌がらなかった。むしろ小さく微笑んで、花瓶の位置を直していた。


 二人は花が好きだ。


 その一致が、カインの中で無意識に「似ている」という印象を強化していたのかもしれない。本当は似ていないのに。花が好きだという共通点は、世界中の何千人もの人間と共有できる程度の些細なことだ。それだけで二人を重ねるのは——。


 闇の中に、二つの顔が浮かぶ。


 金色の髪と翠の瞳。陽だまりのように笑う少女。エルシェ。五百年前、カインの隣で結界の理論を語り、カインの手を取って炉の設計を見せ——そして最後に泣きながら炉に歩いていった少女。


 銀灰色の髪と青紫の瞳。穏やかに微笑むが目が笑っていない少女。リーリエ。崖で手を掴み、「死なせてください」と淡々と言った少女。


 二つの顔が重なる。


 そこに違和感がある。重なるはずがないのだ。エルシェは強くて明るくて、知性の光を常に目に宿していた。リーリエは静かで穏やかで、感情の凍結した水面のような佇まいだった。性格も声も、笑い方も怒り方も、何もかもが違う。


 なのに——カインは二人を重ねていた。


「聖女だから、か」


 呟きが零れる。二人を結びつけているのは「聖女」という一点だけだ。同じ紋章を胸に宿し、同じ炉に命を捧げる存在。カインが守ると誓い——守れなかった存在と、守ろうとしている存在。


 では。


 エルシェの日記を手に取った。革装丁の感触が掌に馴染む。何千回も触れた手触り。それでも読むたびに胸が痛む。


 カインはリーリエの何を守ろうとしている。リーリエという一人の人間を? それとも——「聖女」という記号を?


「……わからない」


 五百年を生きてきた。戦場で幾千の敵と対峙した。古代の文献を解読し、世界の裏側を歩き、誰もたどり着けない真理に手を伸ばした。わからないことなど、もうないと思っていた。


 なのに——自分の感情がわからない。


 これは初めての経験だった。数百年の間、カインは自分の感情に名前をつけることを避けてきた。「贖罪」。その一言で全てを括ってきた。初代聖女を救えなかった罪を償うために、次の聖女を守る。それだけで十分だった。それ以上の理由は必要なかった。


 理由がなければ楽だった。理由がなければ、自分の心と向き合う必要がない。五百年間、カインは後ろを向いて歩いてきた。過去だけを見つめ、過去だけに縛られ、過去だけを理由に生きてきた。前を向く必要はなかった。前には何もないのだから。


 ——そう思っていた。リーリエが問いを投げるまでは。


 カインは遺品を手の中で転がした。ペンダントの裏に、小さな文字が刻まれている。カインだけが読める古代語。「いつか見つけてくれると信じている」——エルシェが遺した、五百年前の言葉。


 この言葉を支えに生きてきた。この言葉があったから、止まらずにいられた。


 だが今、この言葉が——鎖に感じる。


 不意に、廊下の向こうからリーリエの声が聞こえた。リュカと話している。何を言っているかまでは聞き取れない。けれどリーリエの声だとわかる。低くて穏やかで、少しだけ抑揚のある声。


 その声を聞いた瞬間、カインの胸が締め付けられた。


 この声が聞こえなくなることが——怖い。


 それは「贖罪」という言葉では説明できない感情だった。


 エルシェのときは、守れなかった悔恨だった。もっと早く気づいていれば、もっと強ければ、と自分を責める痛み。それは過去に向かう感情だ。取り返しのつかない過去を永遠に振り返り続ける苦しみ。


 だがリーリエの声を聞いたときに動くこの胸の内は、過去ではなく——今を向いている。


 この声が明日も聞こえますように。この声が明後日も聞こえますように。この人が笑っていますように。この人が生きていますように。


 それは贖罪ではない。


 では——何だ。


 カインはペンダントを握りしめた。答えが出ない。まだ出ない。五百年かけて固めた「贖罪」の殻は、そう簡単には壊れない。


 だが——問いが始まった。


 それだけで十分だと、カインにはまだわからなかった。問いが始まったこと自体が、変化の始まりだということを。


 封じられた部屋の遺品たちが、黄昏の光の中で静かに佇んでいる。


 エルシェの日記。懐中時計。ペンダント。五百年間、カインの世界はこの部屋に閉じ込められていた。過去の遺物に囲まれ、過去の記憶に包まれ、過去の罪を噛みしめ続ける——それがカインの日常だった。


 しかしリーリエの問いが、その日常に亀裂を入れた。


 あなたは私を見ていますか。


 その問いは、「今のお前はどこを見ているのか」という問いでもあった。過去を見ているのか。目の前の人間を見ているのか。



 カインの指が、エルシェの日記のあるページで止まった。長い沈黙。暖炉の火が揺れる音だけが部屋を満たしている。カインの深紅の瞳に——遠い日の光が映っていた。五百年前の光。今はもう存在しない人の笑顔の光。

 カインは長い間、動かなかった。


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