あなたは私を見ているの?
朝の光が差し込む廊下で、リーリエはカインの背中を見つめていた。
いつもの朝だった。魔王城の大きな窓から射す柔らかな光、石壁に反射する白い輝き、遠くから聞こえるリュカの鼻歌。厨房からはパンの焼ける匂いが漂い、小魔族たちが忙しなく廊下を行き交っている。何ひとつ変わらない朝——のはずだった。
リーリエは昨夜、ほとんど眠れなかった。
封じられた部屋の存在を知ってから。初代聖女エルシェの遺品がこの城に保管されていると知ってから。カインが五百年間、あの部屋で何を想い、何を抱えてきたのかを察してから——リーリエの胸の中に、ずっと棘が刺さっていた。
問わなければならないことがある。問うのが怖い。問えば、今の穏やかな日常が壊れるかもしれない。でも問わなければ、この棘はずっとリーリエの胸を刺し続ける。
石壁に反射する光がリーリエの銀灰色の髪を暖かく照らしていた。冬の朝の光は弱い。けれどその弱い光の中にリーリエの決意が静かに固まっていた。
カインが振り返る。
「——リー……」
その声が、止まった。
ほんの一瞬。息を呑むような間。深紅の瞳が僅かに揺れ、唇が別の音を形作ろうとして——そしてカインは言い直した。
「……リーリエ。朝食の用意ができている」
リーリエの胸の奥で、小さな何かが軋んだ。
ずっと気づいていた。カインがリーリエの名前を呼ぶとき、いつも一瞬の間が入ること。最初の一音を発する前に、一度息を止めること。まるで別の名前を飲み込んでから、リーリエの名を口にしているかのように。
それが誰の名前なのか——今は、わかっていた。
初代聖女。エルシェ。カインが五百年前に救えなかった、最初の聖女。金色の髪と翠色の瞳を持ち、聖なる炉を設計し、自らの命を燃料に捧げた少女。カインがあの封じられた部屋で、五百年間守り続けてきた記憶の主。
リーリエの名前の最初の音——「リー」。エルシェの名前にその音はない。けれどカインの唇が形作ろうとしたのは「エル」の音だ。「リー」と言い直す前の、ほんの一瞬の逡巡。それをリーリエは何度も、何度も見てきた。
最初は気のせいだと思った。次に癖だと思った。そしてエルシェの存在を知った今——その間の意味が、残酷なほど明瞭になった。
リーリエは一歩、前に出た。
「カインさん」
「なんだ」
「今、別の名前を言いかけましたよね」
空気が凍った。カインの表情から色が消える。深紅の瞳が見開かれ、リーリエを見つめる——しかしその目は、本当にリーリエを見ているのだろうか。
聞かなければよかったのかもしれない。聞かないほうが楽だった。カインの優しさに甘えて、食事を取り分けてもらって、夜更かしを叱られて、「寝ろ」「食え」「無理するな」と命令口調で世話を焼かれて。そうやって笑っていればよかった。
教会にいた頃のように。何も問わず、何も求めず、与えられた役割を淡々とこなしていればよかった。
でも——もう、あの頃のリーリエには戻れない。この城で過ごした日々が、凍っていた感情を溶かしてしまった。感情が戻れば、痛みも戻る。そして痛みが戻れば——問いが生まれる。
もう、黙ってはいられなかった。
「ずっと聞きたかったんです」
声が震えそうになるのを、リーリエは必死に抑えた。
「あなたは、私を見ていますか?」
一拍。
「それとも——彼女の影を?」
静寂が廊下を満たした。朝の光が二人の間を白く切り取っている。
カインが口を開いた。言葉を探すように、視線が泳ぐ。五百年を生きた男が、十七歳の少女の問いに立ち尽くしている。
「……俺は——」
声が途切れた。
リーリエは待った。三秒。五秒。十秒。
カインの唇が何かを形作っては消え、形作っては消える。深紅の瞳が揺れている。数百年を生き、古代の文献を解読し、世界の裏側を歩いてきた男が——たった一つの問いに、言葉を失っている。
答えが見つからないのだ。リーリエに何を感じているのか、エルシェへの想いとどう違うのか——わからないのだ。「贖罪」の一言で全てを括ってきた男にとって、その一言が通用しない感情に直面するのは、初めてのことなのかもしれない。
しかしリーリエにとって、この沈黙は刃だった。「わからない」という答えは、リーリエの存在が曖昧なまま宙に浮いていることを意味する。私はここにいる。名前を持ち、声を持ち、心を持って——あなたの隣に立っている。なのにあなたの目には、別の誰かが映っているのだとしたら。
それがリーリエにとって、どれほど残酷な沈黙か。カインはきっと気づいていない。
「……そうですか」
リーリエは微笑んだ。いつもの穏やかな笑み。目が笑っていない、と誰かに言われたことのある笑み。
「すみません。困らせてしまいましたね」
踵を返す。一歩。二歩。足音が廊下に規則正しく響く。
「リーリエ」
カインが呼び止めた。今度は間がなかった——間がない代わりに、声が掠れていた。
リーリエは振り返らなかった。振り返れば、きっとこの笑顔が崩れる。
「朝食は部屋でいただきます。リュカさんに伝えておいてください」
角を曲がる。カインの視界から消える。
そこでようやく、リーリエは壁に手をついた。
息が荒い。胸の奥の紋章が脈打っている。聖女の紋章ではない。もっと別の場所——心臓の真裏あたりが、鋭く痛む。
泣きたかった。でも涙は出なかった。涙を流すほどの感情が戻ったはずなのに、今はただ苦しいだけで、その苦しさを表に出す方法がわからなかった。感情が凍結していた頃のほうが楽だった。何も感じなければ、傷つくこともない。
けれど——もう戻れない。カインのせいだ。この城のせいだ。リュカの料理のせいだ。みんなが少しずつ、リーリエの氷を溶かしてしまった。溶けた氷の下から顔を出したのは、柔らかくて脆い、傷つきやすい心だった。
聞いてしまった。
聞くべきだった——のだろうか。正しいことをしたはずなのに、胸が痛い。真実を求めることは、いつもこんなに苦しいのだろうか。
リーリエは壁に額を押し当てた。石壁は冷たかった。教会の壁と同じ冷たさだった。
遠い廊下の向こうで、カインが動かないでいることが、気配でわかった。
そして——その手が、震えていることも。
リーリエは目を閉じた。
彼は答えられなかった。それが答えだった。
いや——まだ答えではないのかもしれない。「わからない」は「いいえ」と同じではない。でも「はい」でもない。その曖昧さが、一番苦しかった。
あなたは私を見ていますか。
その問いの重さを、五百年を生きた男は、今初めて知ったのだ。




