問いの前夜
その夜。
リーリエは決意した。
一日中、記録の整理をしていた。テレジアの計算と初代聖女のメッセージの照合作業。手は動いていたが——頭の中は、別のことでいっぱいだった。
書斎の蝋燭が短くなっていた。蝋が溶けて台座に流れ落ち、小さな水溜りのように固まっている。時間が過ぎていた。けれどリーリエの中ではもっと長い時間が流れていた。
カインの目。名前の間。髪に伸ばしかけて引いた手。聖騎士団長の訪問の後、カインの様子が——微かに変わったこと。
それらが——ぐるぐると回り続けていた。渦のように。凪の海の下で起こる潮流のように。表面は穏やかなのに、深い場所では激しく動いている。
知らないふりを続けることもできた。笑顔を装い、「なんでもないです」と言い続けることもできた。カインの優しさに甘えて、不安を飲み込んで、今のままの関係を維持することもできた。
けれど——それは、歴代聖女たちと同じだ。
声を押し殺して、痛みを隠して、笑顔の下に全てを飲み込む。教会が求めた「聖女」の姿。従順で、穏やかで、自分の感情を表に出さない。リーリエはそれを——もうやめたいと思った。
歴代聖女たちの声を聞いた。「本当は生きたかった」と——声を上げた。声を上げることが、どれほどの勇気を要するかも知った。声を上げた者が消されてきた歴史も知った。
けれど——ここは教会ではない。
聞かないままではいられない。
夕食後。
カインが廊下を歩いているのを見つけた。黒い外套の背中。長身の影が、蝋燭の光に揺れている。靴音が石の床に反響する。いつもと同じ足取り。けれど——肩が、わずかに強張っているように見えた。
「カインさん」
呼び止めた。
声は思ったよりも真っ直ぐに出た。震えていない。一晩かけて——心を決めたから。
カインが足を止めた。振り返った。深紅の瞳が——リーリエを見た。
その瞳に——緊張があった。いつもの無愛想さの下に、何かを予感しているような。レオンハルトの問いが——カインの中でまだ反響しているのかもしれない。
「……何だ」
「明日——聞きたいことがあります」
リーリエの声は静かだった。震えていない。昨夜の眠れない夜を経て、朝の光の中で固めた覚悟。何度も心の中で練習した言葉。
「今日ではなく——明日。朝に、中庭で。きちんと向き合って——聞きたいんです」
カインの目が——揺れた。
大きく。明確に。深紅の瞳の中で、蝋燭の炎が不規則に揺れた。
レオンハルトの言葉が蘇っているのかもしれない。「彼女は気づいていますよ」「その沈黙は、彼女にとって残酷です」。カインの沈黙を、リーリエの問いが打ち破ろうとしていることを——カインは理解した。
「……何を聞く」
「明日、話します」
リーリエは微笑んだ。穏やかに。けれど——今回は、笑顔の裏に何も隠さなかった。不安も、覚悟も、怖さも、そのまま目に映して。隠すことをやめた笑顔。初めての——正直な笑顔。
リーリエの胸の中で問いが形を成そうとしていた。言葉にするのが怖い問い。けれど言葉にしなければこの痛みは消えない。胸の奥で育った棘を、いつまでも放置してはいられない。
「逃げないでくださいね」
その一言は——リーリエらしくない、強い言葉だった。教会育ちの敬語。穏やかな物腰。相手を刺激しない言い回し。それらを全て纏ったままで——芯のある一言を放った。
カインの唇が——微かに開いた。何か言おうとして——言えなかった。五百年の歳月で鍛え上げた弁舌が、この場面では役に立たない。
「おやすみなさい、カインさん」
リーリエは踵を返して、自室に向かった。
振り返らなかった。振り返ったら——覚悟が揺らぐかもしれないから。カインの表情を見てしまったら、「やっぱりいいです」と言ってしまうかもしれないから。
自室に戻り、扉を閉めた。背中を扉に預けた。
ベッドに腰を下ろした。
心臓が——速かった。脈打つ音が耳の奥で反響している。
「言っちゃった……」
呟いた。両手で頬を押さえた。熱い。冬の城内は冷えるはずなのに——顔が熱い。
明日。明日、聞く。
「あなたは私を見ているのか」。
その問いを——明日、カインにぶつける。
答えが怖い。「お前は初代聖女の代わりだ」と言われるかもしれない。「贖罪の対象だ」と言われるかもしれない。「聖女だから拾った。それ以上でもそれ以下でもない」と——言われるかもしれない。
けれど——聞かないよりはいい。
歴代聖女たちは、声を上げられなかった。声を上げた者は消された。彼女たちには——問いを口にする自由すらなかった。
リーリエには——ある。
消されない場所で。消さない人の前で。声を上げることが許される場所に、リーリエはいる。
ベッドの上で、リーリエは問いの言葉を何度も練った。どう聞くか。どんな声で。どんな表情で。目を見て聞くか。それとも——。
練れば練るほど——不安が膨らんだ。
けれど——決意は揺らがなかった。
月が窓を横切っていく。夜が深まる。冬の月は冷たく白い。その光がベッドの上に細い線を引いている。
ふと——廊下に気配を感じた。
重く、静かな足音。カインの足音。五百年の修練で身についた音のない歩みが——今夜は少しだけ、重い。
リーリエの部屋の前で——足音が止まった。
一秒。二秒。三秒。
ドアの向こうに——カインが立っている。ノックしようとしているのか。何かを言おうとしているのか。それとも——ただ、立ち止まっているだけなのか。
四秒。五秒。
足音が——再び動き出した。遠ざかっていく。ゆっくりと。重く。
カインも——眠れないのだ。
リーリエの部屋の前に来て、立ち止まって、去っていった。ドアを叩けないまま。言葉を見つけられないまま。
互いに相手のことを考えている。互いに言葉にできないものを抱えている。壁一枚を隔てて——互いに眠れない夜を過ごしている。
リーリエは目を閉じた。
明日が来る。
朝日が昇り、中庭に光が差し、冬の空気が頬を冷やす。霜が降りた石畳がきらきら光る、あの中庭で——リーリエは問う。
「あなたは——私を見ていますか」。
第四部 第二章「歴代聖女の声」、完。
リーリエは窓辺に立った。冬の夜空に星が瞬いている。月は細い三日月。その細い光が、リーリエの銀灰色の髪を淡く照らしている。
「あなたは私を見ているの?」。その問いが、喉元まで上がってきている。言葉にすれば——何かが変わる。良くも悪くも。けれど——言わなければ、この痛みは永遠に胸の中で腐り続ける。
第3部「贖罪の果て」へ続く。




