表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

220/238

問いの前夜

 その夜。


 リーリエは決意した。


 一日中、記録の整理をしていた。テレジアの計算と初代聖女のメッセージの照合作業。手は動いていたが——頭の中は、別のことでいっぱいだった。


 書斎の蝋燭が短くなっていた。蝋が溶けて台座に流れ落ち、小さな水溜りのように固まっている。時間が過ぎていた。けれどリーリエの中ではもっと長い時間が流れていた。


 カインの目。名前の間。髪に伸ばしかけて引いた手。聖騎士団長の訪問の後、カインの様子が——微かに変わったこと。


 それらが——ぐるぐると回り続けていた。渦のように。凪の海の下で起こる潮流のように。表面は穏やかなのに、深い場所では激しく動いている。


 知らないふりを続けることもできた。笑顔を装い、「なんでもないです」と言い続けることもできた。カインの優しさに甘えて、不安を飲み込んで、今のままの関係を維持することもできた。


 けれど——それは、歴代聖女たちと同じだ。


 声を押し殺して、痛みを隠して、笑顔の下に全てを飲み込む。教会が求めた「聖女」の姿。従順で、穏やかで、自分の感情を表に出さない。リーリエはそれを——もうやめたいと思った。


 歴代聖女たちの声を聞いた。「本当は生きたかった」と——声を上げた。声を上げることが、どれほどの勇気を要するかも知った。声を上げた者が消されてきた歴史も知った。


 けれど——ここは教会ではない。


 聞かないままではいられない。


 夕食後。


 カインが廊下を歩いているのを見つけた。黒い外套の背中。長身の影が、蝋燭の光に揺れている。靴音が石の床に反響する。いつもと同じ足取り。けれど——肩が、わずかに強張っているように見えた。


「カインさん」


 呼び止めた。


 声は思ったよりも真っ直ぐに出た。震えていない。一晩かけて——心を決めたから。


 カインが足を止めた。振り返った。深紅の瞳が——リーリエを見た。


 その瞳に——緊張があった。いつもの無愛想さの下に、何かを予感しているような。レオンハルトの問いが——カインの中でまだ反響しているのかもしれない。


「……何だ」


「明日——聞きたいことがあります」


 リーリエの声は静かだった。震えていない。昨夜の眠れない夜を経て、朝の光の中で固めた覚悟。何度も心の中で練習した言葉。


「今日ではなく——明日。朝に、中庭で。きちんと向き合って——聞きたいんです」


 カインの目が——揺れた。


 大きく。明確に。深紅の瞳の中で、蝋燭の炎が不規則に揺れた。


 レオンハルトの言葉が蘇っているのかもしれない。「彼女は気づいていますよ」「その沈黙は、彼女にとって残酷です」。カインの沈黙を、リーリエの問いが打ち破ろうとしていることを——カインは理解した。


「……何を聞く」


「明日、話します」


 リーリエは微笑んだ。穏やかに。けれど——今回は、笑顔の裏に何も隠さなかった。不安も、覚悟も、怖さも、そのまま目に映して。隠すことをやめた笑顔。初めての——正直な笑顔。


 リーリエの胸の中で問いが形を成そうとしていた。言葉にするのが怖い問い。けれど言葉にしなければこの痛みは消えない。胸の奥で育った棘を、いつまでも放置してはいられない。


「逃げないでくださいね」


 その一言は——リーリエらしくない、強い言葉だった。教会育ちの敬語。穏やかな物腰。相手を刺激しない言い回し。それらを全て纏ったままで——芯のある一言を放った。


 カインの唇が——微かに開いた。何か言おうとして——言えなかった。五百年の歳月で鍛え上げた弁舌が、この場面では役に立たない。


「おやすみなさい、カインさん」


 リーリエは踵を返して、自室に向かった。


 振り返らなかった。振り返ったら——覚悟が揺らぐかもしれないから。カインの表情を見てしまったら、「やっぱりいいです」と言ってしまうかもしれないから。


 自室に戻り、扉を閉めた。背中を扉に預けた。


 ベッドに腰を下ろした。


 心臓が——速かった。脈打つ音が耳の奥で反響している。


「言っちゃった……」


 呟いた。両手で頬を押さえた。熱い。冬の城内は冷えるはずなのに——顔が熱い。


 明日。明日、聞く。


 「あなたは私を見ているのか」。


 その問いを——明日、カインにぶつける。


 答えが怖い。「お前は初代聖女の代わりだ」と言われるかもしれない。「贖罪の対象だ」と言われるかもしれない。「聖女だから拾った。それ以上でもそれ以下でもない」と——言われるかもしれない。


 けれど——聞かないよりはいい。


 歴代聖女たちは、声を上げられなかった。声を上げた者は消された。彼女たちには——問いを口にする自由すらなかった。


 リーリエには——ある。


 消されない場所で。消さない人の前で。声を上げることが許される場所に、リーリエはいる。


 ベッドの上で、リーリエは問いの言葉を何度も練った。どう聞くか。どんな声で。どんな表情で。目を見て聞くか。それとも——。


 練れば練るほど——不安が膨らんだ。


 けれど——決意は揺らがなかった。


 月が窓を横切っていく。夜が深まる。冬の月は冷たく白い。その光がベッドの上に細い線を引いている。


 ふと——廊下に気配を感じた。


 重く、静かな足音。カインの足音。五百年の修練で身についた音のない歩みが——今夜は少しだけ、重い。


 リーリエの部屋の前で——足音が止まった。


 一秒。二秒。三秒。


 ドアの向こうに——カインが立っている。ノックしようとしているのか。何かを言おうとしているのか。それとも——ただ、立ち止まっているだけなのか。


 四秒。五秒。


 足音が——再び動き出した。遠ざかっていく。ゆっくりと。重く。


 カインも——眠れないのだ。


 リーリエの部屋の前に来て、立ち止まって、去っていった。ドアを叩けないまま。言葉を見つけられないまま。


 互いに相手のことを考えている。互いに言葉にできないものを抱えている。壁一枚を隔てて——互いに眠れない夜を過ごしている。


 リーリエは目を閉じた。


 明日が来る。


 朝日が昇り、中庭に光が差し、冬の空気が頬を冷やす。霜が降りた石畳がきらきら光る、あの中庭で——リーリエは問う。


 「あなたは——私を見ていますか」。


 第四部 第二章「歴代聖女の声」、完。



 リーリエは窓辺に立った。冬の夜空に星が瞬いている。月は細い三日月。その細い光が、リーリエの銀灰色の髪を淡く照らしている。


 「あなたは私を見ているの?」。その問いが、喉元まで上がってきている。言葉にすれば——何かが変わる。良くも悪くも。けれど——言わなければ、この痛みは永遠に胸の中で腐り続ける。

 第3部「贖罪の果て」へ続く。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ