聖騎士団長の問い
レオンハルトが魔王城に戻ったのは、翌日の昼だった。
偵察任務から帰還した聖騎士団長は、甲冑の汚れも落とさぬまま、カインを訪ねた。砂色の髪に泥が混じり、右頬の古い刀傷の上に新しい擦り傷が加わっている。けれど表情には疲れがなかった。この男は——行動している間は疲れない。止まったときに、一気に疲労が来る。
「魔王。少し話がある」
カインは城の上階にある私室にいた。窓辺に立ち、灰色の空を見ていた。リーリエは別室で記録の整理をしている。昨夜の夕食のことが——まだ、空気の中に残っていた。
「入れ」
レオンハルトが入室した。扉を閉める。甲冑が微かに軋む音がした。
二人きりになった。
レオンハルトは甲冑のまま、カインの前に立った。琥珀色の瞳が——まっすぐにカインを見ていた。嘘がつけない目。裏表のない目。この男の最大の武器は、剣の腕ではなく——この目だ。
レオンハルトの甲冑には旅の汚れがこびりついていた。泥と砂と微かな血の匂い。前線の空気を纏ったまま、聖騎士団長は書斎に足を踏み入れた。
「教会の動向について報告する。大司教グレゴリウスが南方の拠点に兵を集め始めている。春の雪解けと同時に、魔王城への進軍を開始する可能性が高い。規模はおよそ三千。聖騎士団の残存部隊に加え、傭兵の雇い入れも確認した」
「三千か。想定の範囲内だ。城の防衛に問題はない。それで?」
「報告はそれだけだ」
レオンハルトは一拍置いた。軍務的な表情が——消えた。代わりに、一人の男の顔になった。
「だが——もう一つ、個人的に聞きたいことがある」
カインが窓の外から視線を外し、レオンハルトを見た。
「あなたにとって——リーリエは、何ですか」
カインの動きが——止まった。
窓の外を見ていた深紅の瞳が、レオンハルトに向けられた。鋭い視線。けれどレオンハルトは怯まなかった。この男は——怯まない。たとえ相手が五百年の歳月を生きた元聖騎士であっても。
「……何が聞きたい」
「そのままの意味だ。あなたにとってリーリエは何ですか。聖女ですか。守るべき対象ですか。初代聖女の——代わりですか。それとも——」
レオンハルトは言葉を切った。最後の選択肢を、あえて口にしなかった。その空白に——最も重要な答えが入る。
カインの表情は変わらなかった。無愛想なまま。けれど——目の奥に、動揺が走った。深紅の瞳が——僅かに、揺れた。
「なぜ、そんなことを聞く」
「リーリエを見ていればわかる」
レオンハルトの声は静かだった。けれど確信に満ちていた。
「あの子は——あなたを見ている。あなたがどう思っているかを、必死に探っている。食事のとき、調査のとき、何気ない会話のとき——あなたの一挙手一投足を見ている。そして——怖がっている」
カインの息が——止まった。
「怖がっている?」
「ああ。あなたが自分を——初代聖女の代わりとして見ているのではないかと。あなたの目が、自分を通してもう一人の人を見ているのではないかと。あの子はそれを恐れている」
レオンハルトの言葉は直截だった。飾りがない。策略もない。ただ見たままを、感じたままを言っている。この男の強みは——この素朴さにある。政治的な駆け引きは苦手だが、人の感情を見抜く目は鋭い。嘘がつけない分——嘘を見抜くことに長けている。
カインは沈黙した。
長い沈黙。
窓の外で風が吹いた。枯れ木の枝が揺れた。遠くで鳥が鳴いた。
「……俺は」
カインが口を開いた。声が——掠れていた。五百年の歳月で鍛え上げた声が、今は——弱い。
「リーリエを——初代聖女の代わりだとは、思っていない」
「本当ですか」
「本当だ」
「では——なぜ、名前を呼ぶとき間が入るのですか」
カインが——息を飲んだ。
レオンハルトも気づいていた。カインがリーリエの名を呼ぶときの「一瞬の間」に。騎士として、人を観察する訓練を受けた男の目は——カインの無意識を見逃さなかった。昨夜の食卓で、リーリエが指摘したのと同じことを——レオンハルトもまた、以前から察知していたのだ。
「それは——」
「あなたは無意識にやっている。だからこそ深刻だ」
レオンハルトの声に——厳しさが混じった。
「意識的に初代聖女を重ねているなら、自分で正せる。だが無意識ということは——あなた自身が、自分の感情を整理できていないということだ。五百年間の後悔と、リーリエへの感情が——混在している。分離できていない」
レオンハルトの言葉が——正確にカインの急所を突いた。
カインは答えなかった。答えられなかった。
五百年間——カインは初代聖女の喪失を抱えて生きてきた。その喪失が、カインの全ての行動の根底にある。リーリエを守ることも。聖女制度を終わらせようとすることも。記録を集め続けたことも。全ては——初代聖女を救えなかった後悔から始まっている。
では——リーリエに対する感情は何なのか。
贖罪か。
愛か。
初代聖女の代替か。
カインは——わからなかった。自分自身の感情が。五百年の孤独は、感情を分析する能力を錆びつかせていた。
レオンハルトが——静かに言った。
「その沈黙は——彼女にとって残酷です。彼女は気づいていますよ。あなたの目が、時々どこか遠くを見ていることに」
カインの拳が——握りしめられた。
「俺に——何をしろと」
「答えを出してください。リーリエが何者であるか——聖女としてではなく、一人の人間として。あなたがリーリエに向ける感情が何なのか。それがわからないまま、あの子の隣にいるのは——」
レオンハルトは言葉を切った。
「残酷だ、と——俺は思います」
そう言って——レオンハルトは一礼し、部屋を出ていった。甲冑の足音が廊下を遠ざかっていく。
カインは一人、窓辺に残された。
灰色の空。冬の風。枯れ木の影が石壁に揺れている。
レオンハルトの問いが——胸に刺さっていた。深く。正確に。騎士の剣のように、急所を一突きで。
リーリエにとって何なのか。
初代聖女の代わりなのか。
それとも——。
カインはリーリエの部屋がある方向を見た。壁の向こうに、銀灰色の髪の少女がいる。歴代聖女の声を聞き、連鎖を終わらせたいと言った少女。怒りを覚え、泣き崩れ、それでも立ち上がった少女。
その少女に——カインは何を見ているのか。
廊下に出た。リーリエの部屋に向かって歩き出した。ドアの前で——立ち止まった。
ノックしようとした手が——止まった。
「……まだ、俺には答える資格がない」
呟いて——手を下ろし、踵を返した。
重い足取りで——カインは自室に戻っていった。




