表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

218/242

どこにいるのだろう

 眠れない夜だった。


 リーリエは自室のベッドに座り、暗い天井を見上げていた。蝋燭は消してある。月明かりだけが、窓から細く差し込んでいる。白い光が床の上に長い四角形を描いている。


 銀灰色の髪が肩に流れている。月光に照らされて、淡い紫に光って見えた。


 ——この人の中で、私はどこにいるのだろう。



 天井の石組みの模様が闇の中で微かに見える。魔王城に来てから眠れない夜が減ったはずだった。けれど今夜は違う理由で眠れない。胸の奥にある問いが——答えを求めて疼いている。

 その問いが——頭の中で、ぐるぐると回っていた。水車のように。同じ場所を何度も通り過ぎていく。答えが出ないまま、問いだけが回り続ける。


 カインは優しい。それは間違いない。毛布をかけてくれる。食事の心配をしてくれる。身体を気遣ってくれる。炉との接続のとき、手を握って引き戻してくれる。眠れない夜に、温かい飲み物をドアの前に置いてくれる。


 優しい。間違いなく、優しい。


 けれど——その優しさは、「リーリエ」に向けられているのか。


 それとも——「聖女」に向けられているのか。


 初代聖女を救えなかった男。五百年間、その後悔を背負い続けた男。そして今——最後の聖女であるリーリエを守っている。


 「同じ過ちを繰り返さない」。


 カインが何度も口にした言葉。それはリーリエを救いたいということ——のはずだ。リーリエに生きていてほしいということ——のはずだ。


 けれど裏を返せば——リーリエを通して、初代聖女への償いをしているのではないか。


 リーリエを見ているのではなく——リーリエの向こうにいる、エルシェを見ているのではないか。リーリエの銀灰色の髪に手を伸ばしかけて引いたのは——そこに金色の髪を見たから。リーリエの名前を呼ぶときに間が入るのは——別の名前が唇に浮かぶから。


 ——彼女の代わりなのだろうか。


 リーリエは膝を抱えた。


 歴代聖女たちのことを思った。彼女たちは「聖女」としてのみ消費された。名前を奪われ、個人としての人格を剥がされ、「聖女」という機能だけを求められた。教会にとって彼女たちは人間ではなく、結界を維持する燃料だった。


 リーリエもまた——「聖女」として教会に消費された。名前はあった。けれど教会にとってリーリエは「リーリエ」ではなく、「結界を維持する燃料」だった。交換可能な部品。前の聖女が壊れたから、次の聖女を入れる。それだけのこと。


 カインは——違うはずだ。


 カインはリーリエを「燃料」とは見ていない。それは確信している。


 けれど——「初代聖女の代替品」として見ているのだとしたら。


 それは、教会と同じ構造ではないか。


 リーリエという個人ではなく、「聖女」という機能を——ただ教会は「結界の燃料」として、カインは「償いの対象」として。形は違えど、リーリエを「リーリエ」として見ていないことに変わりはない。


 ——考えすぎだろうか。


 リーリエは自分の左胸を見下ろした。聖女の紋章。銀白の紋様が、月明かりに微かに光っている。この紋章がリーリエに刻まれたのは十五歳のとき。選んだのではない。生まれつきの適性だった。紋章が現れた瞬間から——リーリエの人生は、自分のものではなくなった。


 この紋章がなかったら。


 聖女でなかったら。


 普通の女の子だったら——カインは、リーリエを拾っただろうか。


 答えは——明白だった。


 拾わなかっただろう。


 崖から落ちる少女を見ても——聖女でなければ、カインは手を伸ばさなかった。「お前が死ぬと世界が終わる」と言った。世界のために。結界のために。聖女を拾った。リーリエ個人を——見ていたわけではない。


 少なくとも、最初は。


 今は——どうだろう。


 カインは変わっただろうか。リーリエの名を呼ぶとき、別の名前が浮かばなくなっただろうか。リーリエの髪に触れようとするとき、別の髪を思い出さなくなっただろうか。リーリエを見るとき——リーリエだけを見ているだろうか。


 わからなかった。


 わからないことが——怖かった。


 リーリエは自分でも驚いていた。「怖い」と感じること自体が。かつてのリーリエは、何も怖くなかった。死も怖くなかった。孤独も怖くなかった。何も感じなかったからだ。感情が凍結していたから。


 今は——怖い。


 カインに「彼女の代わり」として見られていることが、怖い。カインの目に「リーリエ」が映っていないことが、怖い。


 この恐怖は——リーリエがカインに対して特別な感情を持ち始めている証拠だった。どうでもいい相手が自分をどう見ていようと、怖くはない。怖いのは——大切な相手だからだ。失いたくない相手だからだ。


 けれどリーリエは、自分の感情にまだ名前をつけられなかった。


 恋なのか。執着なのか。依存なのか。感謝の延長なのか。


 わからない。ただ——「この人に、私を見てほしい」と思う。「エルシェではなく、リーリエを見てほしい」と思う。「聖女」としてではなく、「リーリエ」として。


 その願いすら——口に出せない。口に出してしまったら、カインを傷つけるかもしれない。五百年の傷口を開くことになるかもしれない。


 ベッドの上で、リーリエは膝を抱えたまま、長い時間を過ごした。


 月が動いた。窓から差し込む光の角度が変わった。四角形の光が、少しずつ床を滑っていく。


 ふと——ドアの下の隙間に、何かが置かれていることに気づいた。


 小さなカップ。


 リーリエはベッドを降り、ドアの前に膝をついた。カップを手に取った。温かい。蜂蜜を溶かした白湯。湯気がまだ立っている。


 廊下に——気配があった。遠ざかっていく足音。重く、静かな足音。カインの足音だった。


 リーリエの部屋の前に来て、温かい飲み物を置いて——気配を消して去った。


 リーリエは蜂蜜の白湯を両手で包んだ。


 温かい。カップの陶器越しに、液体の熱が掌に伝わってくる。


「……ずるい人」


 呟いた。


 不安で眠れない夜に——こうして温もりを届ける。言葉ではなく、行動で。気づかれないように。けれど確実に。


 ずるい。


 こんなことをされたら——嫌いになれないではないか。不安のまま眠れないではないか。「彼女の代わりかもしれない」と自分に言い聞かせて、距離を取ることができないではないか。


 リーリエは白湯を一口飲んだ。甘い。温かい。胸の奥まで染みていく。蜂蜜の甘さが舌に残る。


 不安は消えなかった。


 けれど——不安の中にも、温もりがあった。


 蜂蜜の白湯を飲み干して、リーリエはベッドに戻った。


 空になったカップを枕元に置いて——ようやく、目を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ