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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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名前の間

 夕食の席だった。


 魔王城の食堂。長いテーブルにリーリエ、カイン、リュカ、マリカが座っている。レオンハルトは今日は城を離れており、席は一つ空いていた。偵察任務に出ているのだと、リュカが教えてくれた。


 マリカの作った煮込み料理が湯気を立てている。根菜と肉をじっくり煮込んだ、身体が温まる料理。リュカが「今日の煮込みは最高っすね」と褒め、マリカが「あら、毎日最高でしょ」と返している。いつもの光景。いつもの温かさ。


 リーリエはスプーンを動かしながら、カインを見ていた。


 いつもの席。いつもの姿勢。黒い外套を脱ぎ、袖をまくったカインが、黙々と食事をしている。左手の甲の古い紋章の痕跡が、初めて気にならなかったことがない——あの紋章は、初代聖女との契約の証だ。いつもは手袋で隠しているが、食事中は外す。


 その口元が——動いた。


「リー……」


 リーリエの名を呼ぼうとした。


 スープの湯気が食堂の天井に向かって立ち昇っている。ランプの光が揺れるたび四人の影が壁の上で踊った。日常の温もりが、重い調査の日々の確かな拠り所になっていた。


 一瞬の間。


 唇が「リー」の形を作り、そこで——刹那の停止。舌が次の音を探すような、微かな間。それから——。


「リーリエ。塩を取れ」


 リーリエは塩壺を差し出した。


「はい」


 何でもないやり取り。日常的な、ありふれた会話。食卓で塩を渡す。それだけのこと。


 けれど——リーリエの心臓が、跳ねていた。


 今の一瞬の間。


 「リー……」の後に、ごく僅かに口が止まった。それから「リーリエ」と続けた。


 この「間」は——以前から何度も聞いていた。カインがリーリエの名を呼ぶとき、いつも微かな一拍がある。リーリエはそれを、カインの話し方の癖だと思っていた。ぶっきらぼうな男の、不器用な呼びかけの間だと。名前を呼ぶことに慣れていない男の、ぎこちなさだと。


 しかし——今は違う。


 初代聖女の過去を知った今、その「間」の意味が——変わっていた。


 「リー」——その後に、別の名前が続きかけている。


 エルシェ。


 四文字の名前。「エル」——「シェ」。「リー」の後に来るべき音が、一瞬だけ「リエ」ではなく別の何かになりかける。


 五百年前、カインが最も大切にし、救えなかった人の名前。カインの無意識が——リーリエの名を呼ぶたびに、もう一人の名前を呼ぼうとしている。五百年の間に刻まれた深い溝。意識の底に横たわる名前。


 リーリエは気づいてしまった。


 気づいてしまったら——もう、知らないふりはできなかった。


「カインさん」


 リーリエの声は、穏やかだった。いつもの穏やかさ。食卓にふさわしい、何気ない声のトーン。けれどその奥に——微かな震えがあった。


「何だ」


「今……」



 リーリエは一口スープを啜った。温かい。野菜と肉の出汁が疲れた身体に染み渡る。こんな何気ない瞬間がかけがえのないものだと、今は知っている。

 言葉を選んだ。慎重に。一語一語、心の中で確認しながら。


「別の名前を——言いかけました?」


 食堂の空気が——凍った。


 リュカのスプーンが止まった。マリカが目を見開いた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、沈黙の中で響いた。


 カインの手が——テーブルの上で、硬直した。スプーンを持つ指が、白くなるほど力んでいた。


 沈黙。


 数秒の沈黙が——永遠のように長かった。煮込み料理の湯気が、静かに立ちのぼっている。


 カインの表情は変わらなかった。無愛想なまま。けれど——目が変わった。深紅の瞳に、衝撃が走っている。自分でも気づいていなかった癖を、指摘された驚き。あるいは——気づいていたが直視していなかったものを、突きつけられた動揺。


「……何の話だ」


 カインの声は平静を装っていた。しかし——硬かった。いつもの「面倒くさい」という無愛想さではなく、防壁を張る硬さ。鋼のように。何かを守るために。


「私の名前を呼ぶとき——いつも、一瞬の間があります。ずっと前からです」


 リーリエの声は静かだった。責めているのではない。問い詰めているのでもない。ただ——確認している。事実を。


「今日だけじゃありません。何度もありました。『リー』と言いかけて、少し止まって、それから『リーリエ』と続ける。その間に——別の名前が、入りかけているように聞こえるんです」


 カインが——唇を噛んだ。下唇を。微かに。けれどリーリエにはその小さな動きが見えた。


 否定も肯定もしなかった。


 五百年の癖。初代聖女の名を無意識に呼びそうになる癖。カイン自身が——自覚していなかったのかもしれない。あるいは自覚していても、認められなかったのかもしれない。どちらにしても——今、リーリエに指摘されて、言葉を失っている。


 沈黙が続いた。


 リュカが気を利かせて立ち上がりかけたが——リーリエが先に口を開いた。


「……いいえ。なんでもないです」


 笑った。


 穏やかに。いつものように。


 けれどその笑みは——痛々しかった。目が笑っていない。唇だけが曲線を描いて、その奥にある感情を——必死に隠している。笑顔の下で——何かが軋んでいる。


 カインの目が——揺れた。


 リーリエの笑顔を見て、何かを言おうとした。けれど——言葉が出なかった。五百年の歳月で身につけた弁舌も、この場面では何の役にも立たない。


 沈黙が、部屋を満たした。


 マリカが小さく咳払いをして、「おかわり、いかがですか」と場を繋いだ。リュカが「俺は三杯目いきます」と明るく返した。声のトーンが少しだけ高い。日常の空気を——無理やりに取り戻そうとする、二人の優しさ。主人たちの間に走った亀裂を、取り繕う優しさ。


 食事が終わった。


 リーリエが席を立つとき、カインが不器用に言った。


「明日は……お前の好きなものを作らせよう」


 居心地の悪さを——甘さで埋めようとしている。不器用な、カインらしいやり方。答えられないことを、別の優しさで補おうとしている。


「……ありがとうございます」


 リーリエは微笑んで、食堂を出た。


 廊下を歩く足取りは——少し、重かった。靴が石の床を叩く音が、いつもより低く響いた。


 名前の間。


 たったそれだけのこと。日常の中の、ほんの一瞬の間。けれどその「間」が——リーリエの胸に、深い楔を打ち込んでいた。


 カインは——誰を呼ぼうとしているのか。


 リーリエなのか。



 レオンハルトが不在の食卓は、いつもより静かだった。けれど寂しくはなかった。四人の間に流れる空気は穏やかで、温かい。暖炉の火がぱちぱちと音を立て、食器の触れ合う音が心地よいリズムを刻んでいる。

 それとも——五百年前の、もう一人の聖女なのか。


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