影を見る目
初代聖女のメッセージを聞いた翌日。
リーリエとカインは書斎でテレジアの計算を検討していた。断片的に聞き取れた初代聖女の言葉と、テレジアの数式を並べて照合する、根気のいる作業。テーブルの上には羊皮紙と薄い紙が交互に並び、リーリエの手書きのメモが余白を埋めている。
昼を過ぎた頃——リーリエの目が疲れ始めた。数式と古代語の文字が混在する記録を読み続けるのは、想像以上に消耗する。
目の奥が鈍く痛み、肩が重い。数式と古代語の文字が混在する記録を読み続けるのは、想像以上に消耗する作業だった。
午後になり、リーリエは少し疲れて椅子の背に身を預けた。目を閉じた。
「……少し、休みますね」
「ああ。休め」
カインの声が短く返った。いつもの調子。けれどリーリエにはわかる。この短い一言の中に、「無理をするな」と「心配している」が圧縮されていることが。
リーリエは目を閉じたまま、静かにしていた。眠ったわけではない。ただ——目を休めていた。まぶたの裏が温かい。暖炉の熱が部屋を満たしている。
ふと——気配が動いた。
カインがテーブルの向こうから、リーリエの方へ近づいてきた。足音はほとんどない。五百年の修練で身についた、猫のような静かな歩み。普段は意識しないが——カインの動きは、常人のそれではない。
何をしているのだろう。
リーリエは目を閉じたまま——気配を感じていた。カインが、すぐそばに立っている。リーリエの椅子の横に。近い。いつもより、近い。
そして——手が伸びてきた。
リーリエの髪に向かって。
銀灰色の髪が頬にかかっているのを——直そうとしたのかもしれない。大きな手が、ゆっくりとリーリエの髪に触れようとした。指先が——リーリエの髪に、あと数ミリメートルまで近づいた。
しかし——。
手が止まった。
一瞬。ほんの一瞬の停止。指先がリーリエの髪に触れる寸前で——引かれた。まるで——火に触れそうになって引いたように。
リーリエは薄目を開けた。
カインの手が——宙に浮いたまま、止まっていた。指先が微かに震えている。
午後の光が書斎の窓から差し込み、テーブルの上の資料を柔らかく照らしていた。リーリエは計算ノートのページを捲った。テレジアの震える筆跡。その一画一画に命が宿っている。
そしてカインの目が——リーリエを見ていなかった。
リーリエの銀灰色の髪が頬にかかっている。光の加減で淡い紫にも見える髪。その髪にカインの手が伸びかけて——止まった。
いや、見ていた。リーリエの顔を見ていた。銀灰色の髪を見ていた。けれどその瞳の焦点が——ここにいないはずの誰かを、一瞬だけ映していた。深紅の瞳の奥に——五百年前の光景が浮かんでいた。
金色の髪ではない銀灰色の髪に、手を伸ばしかけて——止めた。
リーリエが見たのは、ほんの一瞬のことだった。次の瞬間にはカインは我に返り、手を引き、半歩退いていた。深紅の瞳が——通常の焦点を取り戻している。
「……髪が乱れていた。直してやろうと思っただけだ」
低い声。言い訳のような。けれどカインの声には——本人も気づいていないかもしれない動揺が滲んでいた。
リーリエは目を完全に開けた。椅子に座り直し、カインを見上げた。
「ありがとうございます」
穏やかに答えた。笑顔を作った。いつもの——穏やかな笑顔。目が笑っていない笑顔ではない。以前の空虚な笑みではない。けれど——完全に本心でもない笑顔。
その笑みの裏側で——リーリエの胸が痛んでいた。
見えていた。
カインの手が止まった瞬間。その目が——リーリエではない誰かを見ていた瞬間。
初代聖女エルシェの記録を読んだ。金色の髪。翠の目。リーリエとは対照的な外見。健康的で、芯が強くて、知性に満ちた女性。カインがかつて守り、救えなかった人。
カインはリーリエの髪に触れようとして——別の人の髪を思い出した。金色の長い髪を。陽光のように明るい髪を。
無意識に。本人は気づいていないかもしれない。気づいていないからこそ——手を引いた理由を、自分でもわかっていない。「髪が乱れていた」という言い訳は——嘘ではないかもしれない。カイン自身がそう信じているのかもしれない。
その自覚のなさが——余計に、切なかった。
リーリエの胸に——小さな痛みが走った。
カインの過去を知っている。エルシェを失った痛みの深さを。だからこそ傷口に触れることを、リーリエは恐れた。問うことで壊れてしまうかもしれないと。
以前にも感じた痛み。カインの目が遠くを見るとき。初代聖女の名前を口にするとき。「あいつの言葉が——」と語るとき。そのたびに胸に芽生える、名前のつけられない感覚。
今日——それが、少しだけ具体的な形を取った。
「今、誰を見ていたんですか」。
その問いが喉元まで上がってきた。唇が開きかけた。けれど——問えなかった。
カインの過去の重さを知っている。初代聖女を救えなかった五百年分の後悔。その傷がどれほど深いかを、記録を通じて、声を通じて、リーリエは知っている。
だから——問えない。問うことが、残酷になる。カインの傷口に触れることになる。
「次の記録を見ましょう」
リーリエは笑顔のまま——話題を変えた。声は穏やかで、いつも通りで、何事もなかったかのように。
「テレジアの計算のこの部分、初代聖女のメッセージと照合すると——」
カインが一瞬、不自然な間を置いて——頷いた。
「……ああ。そうだな」
二人は作業に戻った。テーブルを挟んで向かい合い、記録を読み解く。いつもの光景。いつもの距離。
けれど——リーリエの胸の中で、小さな痛みがくすぶっていた。
カインは優しい。守ってくれる。ここにいてくれる。
でも——その優しさは、「リーリエ」に向けられているのか。それとも——「聖女」に向けられているのか。
リーリエを通して、別の誰かを見ているのだとしたら——。
その問いは、まだ言葉にならなかった。氷の下に沈んだ石のように。見えるけれど、手が届かない。
リーリエは記録に目を落とした。文字が滲んで見えた。涙ではない。ただ——焦点が合わなかっただけだ。そう、自分に言い聞かせた。
リーリエは自分の手を見下ろした。記録を捲り続けた指先が、インクで少し汚れている。この手で——テレジアの計算を引き継ぐ。この手で——エルシェのメッセージを解読する。この手で——歴代聖女たちの声を、世界に届ける。
けれど同時に——この手は、カインの手を握った手でもある。カインの震える拳を包んだ手。その記憶が——指先に残っている。温もりと痛みが、同居している。
窓の外で、冬の風が吹いていた。枯れ木の枝が揺れる音が——遠くから聞こえた。




