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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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対等な場所

 夕暮れの窓辺に、二人は並んで座っていた。


 魔王城の西の塔にある、小さな窓際の席。カインがたまに一人で夜空を眺めていた場所だった。リーリエがこの場所に来るのは初めてで、石の窓枠に腰を下ろしたとき、石の冷たさと空の広さに少しだけ息を呑んだ。


 地平線が燃えている。夕陽が平野を赤く染め、雲の端が金色に光っている。


「カインさん」



 夕日が窓から差し込み、二人の影を長く引いていた。橙色の光が石壁を染め、空気までもが温かい色に変わる。この場所をカインは誰にも見せたことがなかったという。

「ああ」


「数百年、怖かったんですか」


 唐突な問いだった。しかしカインは驚かなかった。


「……ああ。怖かった」


 声が低い。いつもの素っ気ない低さではなく、もっと深い場所から絞り出すような低さ。


「また同じことが起きるのが。俺が隣にいても、また——守れないまま、あの子が消えていくのが」


 リーリエは黙って聞いていた。


「五百年、ずっとそれが怖かった。だからリーリエに出会ったとき——怖かった。また聖女がいる。また守らなければならない。また失うかもしれない」


 カインの声には嘘がなかった。不器用に、しかし正直に、自分の弱さを差し出している。


 リーリエは胸の中の痛みを押し込めながら、静かに口を開いた。


「私も怖かったです」


 カインが横を向いた。


「あなたにとって、私が透明だったらどうしようって」


 同じ言葉を昨日も言った。でも今日は——少しだけ、違う温度で言えた。


「教会では透明でした。機能だけを見られて、名前を呼ばれなくて。ここでも——あなたの目に映る私が、別の誰かの影だったら。私はまた透明に戻るのかなって」


「……リーリエ」


「でも」


 リーリエはカインの深紅の瞳をまっすぐに見た。


「あなたが正直に話してくれたから。怖いって言ってくれたから。——私だけが怖かったんじゃないんだって、わかりました」


 沈黙が流れた。風が塔の上を吹き抜けて、二人の髪を揺らした。


「私たち、似ていますね」


 リーリエは呟くように言った。


「傷だらけで、不器用で」


 カインが僅かに目を見開いた。それから——ほんの少しだけ、口の端が上がった。笑みと呼ぶには微かすぎる変化。だがリーリエにはわかった。


 肩が触れそうな距離。けれど触れてはいない。その僅かな隙間に二人の関係の全てが詰まっていた。近づきたい。けれど怖い。その均衡が夕日の中で金色に光っていた。


「……ああ。だから——隣にいて、居心地がいいのかもしれん」


 その言葉は告白ではなかった。「好きだ」とも「愛している」とも言っていない。けれど——告白よりも深い何かがあった。


 隣にいて、居心地がいい。


 五百年の孤独を生きた男が、誰かの隣を「居心地がいい」と言った。それがどれほどの意味を持つか——リーリエにはわかった。だってリーリエもまた、ずっと一人だったから。


「私も」


 リーリエは窓枠の上で膝を抱えた。夕陽が銀灰色の髪を赤く染めている。


「カインさんの隣は、静かで。温かくて。——居心地がいいです」


 二人は黙った。言葉が要らなかった。


 窓の外で夕陽が沈んでいく。赤が紫に変わり、最初の星が瞬き始める。風が冷たくなってきたが、二人の間には温もりがあった。


 リーリエの肩がカインの腕に触れた。


 どちらも離れなかった。


 守る者と守られる者ではなく。贖罪する者とされる者でもなく。ただ——互いの傷を知った上で、共にいることを選んだ二人として。


 リーリエは目を閉じた。左胸の紋章が静かに脈打っている。痛みはある。いつもある。骨の髄を焦がす鈍痛。結界に命を送り続ける代償。それは覚醒した日から二年間、一秒も途切れることなく続いている。


 でも今は——痛みの隣に、温かさがある。肩が触れている場所から伝わる体温。カインの存在の温度。それが痛みを消してくれるわけではないけれど——痛みだけが全てではないのだと、教えてくれる。


 不意に、リーリエは思った。


 生きていたい。


 死にたいと思っていた。ずっと。崖から落ちようとするほどに。けれど今——この人の隣にいるこの瞬間が続いてほしいと、初めて、はっきりと思った。


 それはまだ「生きたい」という宣言にはならない。しかし「死にたい」の対岸に、小さな灯火が見えた。


「カインさん」


「なんだ」


「……なんでもないです」


「そうか」


 沈黙。風の音。星が一つ、また一つと増えていく。


「——なんでもなくはないだろう」


「え?」


「お前が『なんでもない』と言うときは、大抵なんでもなくない」


 リーリエは目を丸くした。それから——ふっと力が抜けたように笑った。


「……よく見ていますね」


「見ている」


 カインの声は静かだった。


「今は——お前だけを」


 リーリエの心臓が大きく一度だけ鳴った。


 その言葉に嘘はなかった。深紅の瞳がリーリエを映している。リーリエだけを。影も、記号も、代替も——何も混じらない、純粋な眼差し。


 リーリエは顔を伏せた。頬が熱い。涙ではなく、もっと別の何かが目の奥に滲んでいる。


「……ずるいです」


「また、ずるいか」


「はい。ずるいです」


 並んだ肩が触れている。冷たくなった夜風の中で、その一点だけが温かかった。


 しばらくして、カインが立ち上がった。


「冷えてきた。中に入るぞ」


「もう少しだけ」


「……わかった」


 カインが再び座った。リーリエの我儘に、特に理由を聞くことなく付き合ってくれる。以前なら「風邪を引く。中に入れ」と強制的に連れ帰っていただろう。今は——リーリエの意志を尊重している。対等な場所に、立とうとしている。


 星が増えていた。天の川が白い帯になって空を横切っている。五百年の歴史を見てきた空と、十七年の命を刻んだ空が、同じ夜に広がっている。


「カインさん」


「ああ」


「明日も、こうしていられたらいいですね」


 カインは答えなかった。答える代わりに、リーリエの肩に自分の外套をかけた。


 重くて温かい布。カインの体温が染みついた外套。リーリエはその重さに包まれながら、星空を見上げていた。


 明日のことはわからない。紋章はいつ消えるかわからない。世界がどうなるかもわからない。


 けれど今夜は——この人の隣にいる。



 リーリエはカインの横顔を見つめた。夕日に照らされた輪郭。長い前髪が風に揺れている。深紅の瞳が、地平線の向こうを見ている。けれど今夜は——遠い場所を見る目ではなかった。今ここにある世界を、見ている目だった。

 それだけで十分だと思えることが、かつて死を望んでいたリーリエにとって、どれほどの奇跡か。


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